1904(明治37)年に寒川(スンカー)で生まれた比嘉さんの証言から引用します。
この証言は比嘉さん個人の生活史というよりは親戚まで含めた生活史が当時の変化を反映しているので一部の抜粋が困難です。
比嘉さんのおばあさまは与那原でジューシーや天ぷらを売ったり、役者を雇って寒川や泡瀬で芝居を見せたりしていたそうです。また引っ越し先の中城では学校の門口で文房具を売っていたこともあったと。さらにまた
高嶺村与座(現糸満市)の製糖工場近くでジューシーや天ぷらを売っていたこともあったと。
寒川芝居に関わっていた人が女性だったというのも面白いです。
比嘉さんのおばあさまの移動は、ひきとった子供の勤務先、(子供の)結婚相手の勤務先(製糖工場)、によるものです。比嘉さんが15歳の時に亡くなられているとのことなので1919(大正8)年ごろ鬼籍に入られています。
この移動は子供達の生活上の理由によるものですが、その当時の年寄りが異動先で小資本でも可能な商いをすばやく始めることが出来ていたこと、その逞しさなどにすこし呆然とします。
(比嘉さんの)祖母は旧藩時代の暮らしから明治維新、そして土地整理という変化をおそらく経験しています。さらにはこの激変の中で変化してゆく生活スタイルにもきちんと対応できていたことなどにも驚きます。世が世なら商売で財を成していてもおかしくない人だったのでしょう。
[引き取られた叔母の家(鈴木完次宅)]は下泉町一丁目でした。今のバスターミナルの大石の隣で二百坪余りの土地に、自分達の家と四軒の貸家もありました。石の下に井戸があって使っていました。(略)
後でおじさんの屋敷を買った人、島袋といいましたが、落葉に腹を立てて木を切ってしまったところ、その日のうちに死んでしまったというのです。その後にも似たような不幸があったので、あの大石は今のバスターミナルの中でも動かせないのです。一度だけ火花が走ったのを見たことがありますがそれは神様だといわれました。p147、148
おばさんの家では、初めはいわし売りのカミアチネー(行商)をしました。東町で卸で魚を買い、それをいれたザルを頭にのせて、若狭町、久茂地、松尾辺りを廻って売りました。市場まで行くよりは、とよく買ってくれました。
それから通堂、三重城にボタン会社があって、針でボール紙にボタンを付ける仕事もしました。賃金は十個つけたら八銭とかね。p148
鈴木(完次)は学校を定年で辞めて大坪ドンという米問屋の会計をして60円もの月給を取っていたのですが、そのうちに鈴木がシビナー船(まぐろ船)を買って一回目は二百円もの大量でよかったけど、あとは欠損ばかりでとうとう家も手放してしまったのです。
鈴木のおばさん達は、夫が船で失敗してからは、垣花で家を借り、下宿屋をしていました。p149、150
父の実父は私が生まれた明治33年に亡くなっているので、(父は台湾から)33のオワイスーコー(三十三年忌)に帰って来たのです。そこで辻で育った私より四つ下の妹が訪ねてきました。「さくら屋」という屋号でした。ウトという名前で、ずっと姉妹の付き合いをしましたよ。辻にいたので私とはいろいろと違っていましたがね。p151
昭和25年、子供が小学校一年の途中まで為又(名護のびいまた)のヤマノミー(山の中)に住んでいました。那覇へ出たのは、私の妹、さくら屋のウトが辻から出て、松尾の「南海」という料亭の後継ぎをしていたのでそれを頼って出て来たのです。p157
一銀通りがまだ出来ていない頃に、私は今の海邦銀行のすぐ横で雑貨店をしていました。しかし家主が自分で店をやるから出ていくようにといわれて、困っていたら、近所の小川さんという人が、私の家でやりなさいといってくれたのです。なかなか繁盛していたのですが一銀通りが出来る時に立ち退きになって引っ越さなくてはならなくなりやめました。p157寄留商人の大坪ドン(殿)のことがでてきますね。ボタン会社は貝のボタンを作っていたのでしょうか。
PR