クヮンチェーバク(棺箱)の続きです。
棺造り
琉球は古来より相互扶助が発達し、葬式は近所(隣組)が取り仕切った。それで棺は死者の家の庭で大工や細工勝手がつくったが、大正年間から金持ちは葬儀社に頼むようになり、棺屋ができた。(略)
那覇市史 資料編第2巻中の7 p337那覇市泊では、大正時代に大城のハクヤーがあって、タカラムンツクヤー(棺作り)が白布と枕もつけて二円五十銭であった。
那覇市史 資料編第2巻中の7 p636那覇市史の別箇所にあったのでまとめられなかったのですが専業の棺造りは大正以降の風習のようです。
これまでをまとめると
■那覇市史では大正時代の泊に棺造りがいたこと、内間の記録では上之屋に買いにいったこと、上之屋誌では棺作りがいたことがわかります。上之屋は周辺市町村や泊の人間の寄り合い部落で、馬車の停車場設置による人口増加で自然発生したところですから歴史は古くありません。
細工勝手(セークガッティ)も引用しておきます。
細工勝手
本職の大工ではないが、手先が器用で大工仕事のできる人をいう。役人になっても収入のある官職になるまでは相当の年数を要するので、手先の器用なものは非番の日には大工に代って仕事をしたり、細工物をした。そのうちに技は上手になり、彫刻、印刻、指物、挽物などで大成した人もいる。もっとも彼らが多くやったのは甕や鍋や釜の蓋、柄杓、まないた、玩具などの日用品製造であったが、飛白結・仏画描き・飾職・表具などあらゆるものに手を伸ばした。
那覇市史 資料編第2巻中の7 p336
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