
寄宮での平野区に関しては過去に
天久の地縁で言及しています。
>部落は米軍の土地接種にあい上之屋米軍基地にあった村落が現在地へ移住した。
>この時平野区は寄宮に移住した。これらは泊と本部方面からの屋取りと寄留民であるから移住後は交際は無い。
>東原に三十戸ほどの首里出身の屋取り(ヤードイ)があった。
>平野区は泊との境界付近に本部方面の出身者が集まっていた。
東原に三十戸ほどの首里出身の屋取り(ヤードイ)があったというのは
旧真和志市北部ハルナー図の泊付近にある東原(あがりばる)でしょうか。
それと
天久の地縁 2で触れたように自治会として独立存続もしています。
気になるのは屋取りと寄留民という記述ですが、
上之屋で引用したことを思い出すと少し納得がいきます。
>天久から分離独立したのが大正九年であったがいわゆる屋取部落とは内容的に違っている地域である。
>それが、那覇と中頭、国頭地方をつなぐ乗り合い馬車の駐車場が置かれてから、与那原や北谷方面からの移住者があり、
>また泊方面から自然膨張的に上之屋区域に移り住むようになって(真和志)北部の一拠点的存在となった。泊後方や天久の周辺は昭和初期の人口膨張に他地域からの移住と士族の屋取部落が入り交じっていたようです。
屋取部落の住人は士族の出身ということで平民と交わろうとしなかったという話やいつまでもサムレー然としていたという話を良く聞きます。そのような有様では当然のごとく通婚などありえないでしょう。そのような独立性というか孤立性が移住元との交流の無さや移住先での身内交流の維持が継続できる一因ではないかと邪推してしまいます。
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