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真和志南部(南風方/フェーカタ)

那覇市史より引用します。

旧首里と旧那覇両市の中間に介在する旧真和志村(後に真和志市)を南北に二分して、続に南部を南風方(フェーカタ)、北部をニシカタと唱えた。南風方の地域は、国場川をへだてて、南風原・豊見城・小禄三村に接し、識名・上間・仲井真・国場・与儀・古波蔵の6部落が、識名から那覇の泉崎に至る断続する丘陵の上、またその斜面に立地して集落を形成した。
これらの部落は、地割り制度によって、部落別に土地を共有して農耕を営み、かつ共同体の神を斎く村落共同体であった。
明治36年土地制度の変革によって、共同体の社会が次第に崩壊するに従い、都市近郊農村としてのこれらの部落の周辺には、村外から転入するものが多くなりいわゆる屋取り部落が発生した。
識名に繁多川、真地与儀に樋川古波蔵に楚辺、壺川、松尾などの集落ができて新しい行政区が誕生した。
(那覇市史資料編第二巻中の7、p39)

※下線と強調は私によります。

原集落と新集落(屋取り)の関係が示されています。
>識名に繁多川、真地
>与儀に樋川
>古波蔵に楚辺、壺川、松尾


そして、
地割り制度によって、部落別に土地を共有して農耕を営み、かつ共同体の神を斎く村落共同体であった。
明治36年土地制度の変革によって(略)転入するものが多くなりいわゆる屋取り部落が発生した。

と屋取り部落の発生について考察されています。
土地制度の変革はいわゆる地租改正ですが本土では明治の初めに行われたことが沖縄では明治36年なのかというのはいろいろ本が出ていますから調べて下さい(なげやり)。同時期に先島の人頭税もやっと廃止されています。
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