
図は農連市場そばあたりにあった神里原の大洋劇場周辺で、参考にしたのは真和志民俗地図、ゼンリン地図、昭和26年の那覇図です。
まずこの図を図1としたいのですがこの図には真和志民俗地図に存在する道を書き込み、ゼンリン地図から大洋劇場を書き込みました。

そして図2は大洋劇場の周辺をさらにアップにしました。
図2はさらに図1に昭和26年で存在する道筋を書き込み、赤で昭和26年当時の住所の区分けを(かなりいいかげんに)書入れてあります。那覇劇場も書入れてありますがこれはゼンリン地図を参考にしました。強調してあるラインは壷屋(那覇)との境目です。
図1、2とも大洋劇場から開南バス停まで通じるバイパス道路が開通する前の図ですが図1はバイパス道路を消さずに残してあります。開通時期は確認していないのですが60年代に入ってからの開通だったという記録を読んだ覚えがあります。
後年サンライズ那覇から農連市場までの地帯はバイパス道路によって分断されました。分断の遥か前である昭和26年ではサンライズから伸びる道路により二つに分割、さらに垂直に分割されて碁盤目のような区分けになっています。
大洋劇場そばから丸国マーケットまでは道路に沿って三分割されていて、両方のケースともに区分けは現在の土地利用とは違っています。
そして昭和26年のこの一帯は神里原の最盛期です。
地図には書入れませんでしたが大洋劇場の斜め向かいには山形屋が存在していました。
参考:
経済の背景(2)戦前の1922年に開業した山形屋呉服店沖縄支店が始まり。その後、沖縄戦を経て、1950年に元社員により当時の中心地であった那覇市神原に移転。1955年には国際通り沿いに移転した。
沖縄山形屋 - WikipediaPR