「戦後の沖縄 たばこの歴史」という本を参考に戦後沖縄での三つの会社の成り立ちをまとめてみます。
•琉球煙草株式会社 昭和26年設立
•オリエンタル煙草株式会社 昭和31年5月設立
昭和29年11月以降琉銀の管理課にあった琉球香港煙草株式会社の権利一切を引き受けて事業を開始している。
•沖縄煙草産業株式会社 昭和32年7月設立
アメリカたばこの輸入業者が設立した。規模は設立順で大きいです。
オリエンタル煙草の前身とも言えるような「琉球香港煙草株式会社」については引用します。
たばこ製造についても外国企業数社から琉煙社に対して事業提携の申し入れが行われるようになった。昭和27年末には(略)沖縄に輸出していた「香港煙草」(イギリス系)と、両切たばこの製造について合弁事業を計画するに至った。しかし、同計画は実行面で不調をきたし、香港煙草社は自ら主導的立場にたってのたばこ製造を意図し、琉煙社もまた自力でもって両切たばこの製造に取り組む方向に展開していった。
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両切りたばこ巻き上げ機2台の設置計画を基に発足した琉煙社の事業計画が資金調達面で難航している間、前記の香港煙草社は同社製品の輸入先である大島産業商事(後に有村産業と改称)と改めて事業提携を行い、同社製品のいわば現地生産・販売を意図して、28年中に「琉球香港煙草株式会社」を設立した。そして29年4月以降香港から輸入した原料を使って製造を開始(略)売れ行きは芳しくなかったらしく、同社は、製造開始後半年を経ない同年10月に株主総会に置いて解散決議、11月には新聞紙上に解散通知、以降琉球銀行の管理課へ移行する道を辿った。
戦後の沖縄 たばこの歴史/羽田武文 p71、72(省略と抜粋)この本は力作で戦後沖縄経済史やその背景、煙草葉の配合割合と税金と商品計画がくわしく述べられています。
復帰少し前あたりから沖縄の煙草会社は本土の下請け作業をし、後々下請け作業が必要不可欠なものになっていってしまいます。この事は事実上本土JTへの系列化だと思いますが復帰前にはすでにそうなっていたのかと驚きました。
ハイトーンのことも触れられていますので抜出してみます。
39年1月、アメリカ政府公衆衛生局が発表したいわゆる「喫煙と健康に対する報告書」は、沖縄においてもたいへんな社会的関心を呼び起こし、その反響の大きさに、琉球政府厚生局は「タバコの害から住民を守るにはどうしたらよいか」という面から調査に乗り出した、と言われるようになった。こうしたことを契機に消費者の嗜好は一段と喫味緩和なたばこへと移行するようになっていった。
右のような状況を見て、オリ煙社は、その持ち前であるマーケティング感覚を活かして新しい銘柄開発に着手した。“くせがなく独特の風味と香りをもた緩和な喫味のたばこ”をねらいとして製作された新製品は「ハイトーン」と名付けられ、正月に向けて12月19日に発売された。
戦後の沖縄 たばこの歴史/羽田武文 p177(省略と抜粋)