「沖縄現代史への証言/新崎盛暉編」から引用します。この本はインタビュー集で別々の話者の話をまとめたものです。
引用部分は「明治、大正、昭和の社会相」で宮里栄輝さんがインタビューされています。
いわゆるイリチリー(常時雇い人)といっておりましたがね。それがうちに泊まり込みでずっと農業をやってくれていました。その連中はいまから考えるといろんな人がいて、那覇なんかで食いつめた連中がうちにきて、「イリチリーにしてくれんか」と言って、そして1年も2年もおりましたよ。
畜舎の低い2階に寝泊まりしておりました。休んだりするのは、居間の続きのそばの女中なんかが寝泊まりする部屋でした。賃金も払っておったようです。変な話だけれども、2、3年イリチリーをしておって後に乞食の親分になった人がいます。その人は今の瀬長亀次郎氏の住所の近くの古波蔵の馬場に家があった翁長松という人でしたが、怠け者で、その人がよく「金を借してくれ」とか何とか言って「またか」と小言をしょっちゅういわれていました。
あの頃は、那覇のいまの料亭「左馬」の近くにバクチャーという洞窟があって、岩の下がほら穴みたようで、そこはちょうどいい泊り場所なんです。そこに何人かの乞食がすんでいましたがね。そこの親分で、同宿の乞食仲間からピンをはねるようでした。そして、その翁長松という人は、時々、自分も市場なんかを廻って物をもらいに歩いておったが、洞穴内ではずっとピンハネを続けていたらしい。私いっぺんその翁長松を訪ねていったことがありますがね。そうしたらね、その人は目をキョロキョロしておったが、私が「マチューシー」と呼んだら「だれか」と聞くもんだから「私だよ」と言ったんです。そうすると、その翁長マチューという人は泣いて、「マチューシーはこんなになって…」と懺悔みたようなことを言っていましたがね。そしてあの時50銭くれたら他の乞食も寄ってきて私に哀訴していましたがたちまち翁長に一喝されて引き下がりました。
私が24、25ぐらいの頃ですね。私は幼い時その翁長という人にナイフを買ってもらったりしてずいぶん可愛がってもらいましたからね。
「沖縄現代史への証言」明治、大正、昭和の社会相/宮里栄輝 p48、49(抜粋と編集)宮里栄輝さんは1898(明治31)年生、船越義彰さんは1926(大正15)年生。
バクチャヤーといえば(略)頂上は芝生が程よくはえ、三月三日のお重びらきには最適な場所であったが、下はガマで、そのなかには、那覇中の乞食が集まり天露をしのいでいた。翁長松(オナガー・マチュー)という親分がいて、乞食達から家賃ならぬガマ賃を徴収していたという話がある。ぼくは、翁長松の顔は知らないが、彼が死んだ時、新聞に報道されたそうだ。
なはわらび行状記/船越義彰 p69、70
グダグダ(β) ムヌクーヤーテーソーオナガマチューは古波蔵に住んでいたが身を持ち崩してイリチリーになり、最後は物乞いの大将となり昭和の初期頃に亡くなったという感じになるでしょうか。
死亡記事などが探せれば後で追加したいと思います。
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