那覇市史の戦後新聞集成2(資料編第3巻4)から1953(昭和28)年6月の記事を抜粋します。那覇市史には関連する記事が収録されていないのでどうなったのかはわかりません。
条件付きのオン・リミッツ/4日から一斉に解禁/赤線地帯に標識掲げる
去る4月1日以来実施されて来たオフ・リミッツは、関係市町村の手で『赤線地帯』を設けることによって、初めて禁を解かれることになり、那覇。真和志、嘉手納1市2村を除く他は4日から一斉にオン・リミッツとする旨正式に軍から公表され、2ヶ月振りにやっと解決を見ることになった。(中略)
なお那覇市と、真和志村は協定書を入れなかったが、これは目下の所赤線区域の設定が困難だったためと見られている。
(中略)
微妙な那覇・真和志/赤線地帯、話合いで決めたい
条件づきでオン・リミッツということになったが、さて。この条件設定については各市町村とも頭を悩ましているようだ。こんど協定書を見合わせた那覇市と真和志村当局に意見と対策をきいてみた。
那覇市平良社会部長の話 - 赤線区域を設けよとのことだが、これは実際問題として困難だ。赤線区域に相当するところが現在あるかといっても、それは極めてアイマイだ。それをまとめよということになればそれこそむつかしい。それで5日頃市議会や関係業者と対策を練り、何とか名案を出そうと思っている。
真和志宮里村長の話 - 真和志村は米軍人さん達にはそれほど利用されてもいなかったので、オフ・リミッツもそんなには、応えなかったと思っている。例えば栄町でも、アメリカの人達は余り立ち寄っていない。然もそういったところを赤線区域だと指定することもどうかと思う。今のところ良い考えもないが、那覇と真和志は共同して特定地を決めるようにとの意向もあるので一応、那覇市に問い合わせることにしている。
沖縄タイムス 1953年6月2日 那覇市史戦後新聞集成2 (抜粋と編集)記事別箇所には「日没後オフ・リミッツを宣言されたが、之は市町村の一部に多くの衛生的欠陥の確実な増加があったため、オフ・リミッツの必要を生じたからである」と司令部が述べています。
また「但しこのオフ・リミッツの解除に当り現在迄有効な夜11時以降の市町村への立入は禁じられることには変わりはない」「オフ・リミッツの立札のある特殊地域には軍関係者の出入りはさせないことに同意した。これに対し市町村長は各村および民警察と協力して売春行為を滞りなく防止することにも同意した」ともあります。
米軍の売春取締りと赤線の設置を同時に言うようなダブスタはわかりづらいですが当時はそんなもんで、これは沖縄の行政側もそうです。
協定書は「中部地区各市町村長(特殊地域のない西原、中城村を除く)と小禄村長」がライカムを訪れ署名しています。西原・中城以外は特殊地域が存在し、衛生上の問題があったために日没以降立入禁止(オフ・リミッツ)になっていたが、その解除のために各市町村長が協定書にサインしたということです。
後段の那覇と真和志の対応ですが、那覇は解放が進んでいるものの区画整理がまだされていない時期です。
参考:
グダグダ(β) 旧那覇地区の解放順序 (52年までに大体返還されている)
参考:
グダグダ(β) 崇元寺通り(58年) (泊エンジニア部隊そば、十貫瀬)
真和志は栄町に料亭や旅館がありますが、これらは米軍相手の赤線とは違うように思えます。那覇に米軍がいた時代も売春地帯はあったと思われますが実際どうであったのかの資料は探せていません。
宮里栄輝真和志村長が「那覇と真和志は共同して特定地を決めるようにとの意向もある」と言ってるのがだれの意向なのかはよくわかりませんが、時期などを考えると興味深いものはあります。
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