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山城高保

承前。
グダグダ(β) 山城高興(ギンコウヤマグシク)
グダグダ(β) 山城高興について
昭和13年9月1日発行の「月刊琉球」にある人物立体写真から抜粋します。

彼[山城高保]自身の話に依ると彼の資産はせいぜい60万円位だといふ。
---
彼[山城高保]は先代山城高興の孫である。正確に言へば高興の次男(高義)の嫡子である高興の長男(高元)が、子なくして夭折し、彼の父高義も祖父に先立って死んだ為、彼は明治大学を出ると直に帰郷して、祖父の家業の手伝ひをさせられた。祖父高興は沖縄のやうな土地で、一代であれだけの財産を築き上げた人だけに、相当にむつかしい人間であつたらしい。
---
兎に角彼は現在現実に百万長者の一人である。何時か本誌のマダム座談会に、沖縄の美男の一人に数へられた彼も、もう今年36歳、愈々油の乗りかける年頃であり、今後彼が県下の実業界にどういうふ役割を買つて出るか、名誉欲も権勢欲も人並には持つてゐるらしいが、事業には手を出すなといふ祖父の遺訓の下に、彼が今後どう動くかは実に興味深い問題であらう。
(赤嶺百歳)
月刊琉球 第2巻第8号9月号 p11(抜粋と編集)


これによると昭和13年9月までには山城高興は亡くなっていて、子供が早世していた為孫の山城高保が遺産を相続していたことがわかります。
文中で美男とされていますが、確かに歌舞伎役者のような色男です。昭和13(1938)年に36歳ということは明治35年頃の生まれになるでしょうか。
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山城高興について

1938(昭和13)年3月の「月刊琉球 第2巻第5号」に「人間としての祖父 山城高興を語る/山城 高保」というお孫さんのエッセイがあり、銀行山城の半生が語られています。

祖父の父は薩摩の人で、本名を荒巻高寧、通称山野新兵衛と云ふて琉球と薩摩を往来してゐた。書画に通じて、秀谷と号し、余暇をさいては書画に没頭して居たらしくまだ家にも幾らか残されてゐる。母は査氏国吉の娘で祖父は琉球と薩摩の血を受けた訳である。父が薩摩に帰って行った後間もなく母を失った祖父は頼るべき人とても無く、ただ残された遺産のみを頼りに世の荒波に放り出されてしまった。
月刊琉球 第2巻第5号 (抜粋と編集)


その後は山野の知り合いの船長が困窮を知り、山野の遺産のいくらかを船が入るたびに運んでくれることになったようです。生活が安定した高興は漢学者に就いて学ぶことになりますが、しかし数年の後には遺産も届かなくなります。
その頃第百四十七銀行沖縄支店ができることになった際に初代銀行長(支店長)の田代のもとを山野が訪れて高興の事情を打ち明けて将来を託します。入行することになった高興は沖縄県最初の銀行員となり、順調に出世し、押しも推されもせぬ山城高興(ギンコウヤマグシク)として有名になります。

戦前の長者番付ではだいたい上位にいて、昭和14年からは孫の山城高保になっています。(大正5年の人事録では高元と高義の2人の息子がいることになっているのですが)。

大正4(1915)年/山城高興|499/3位
大正7(1918)年/山城高興|778.84/2位
昭和14(1939)年/山城高保(金貸業)/1位
グダグダ(β) 多額納税者(大正4、7、昭和14)


大正の人事録では多数の家屋と三万坪余の土地を有していることになっていますが、戦後那覇市の土地所有長者番付では山城高常さんが2位です。
推測ですが銀行山城の家業は子息(高常)に引継がれ、沖縄戦前に山城高常さんは疎開して52年当時は在福岡だったと思われます。

在福岡 山城高常 /9699坪40/2位
グダグダ(β) 土地所有長者番付(1952)


そのほか昭和12年の新聞記事にも名前があります。

参考:グダグダ(β) 那覇長者番付(S12) (百万長者級に東町の山城高興氏)
参考:グダグダ(β) 那覇長者番付(S12) 3  (貸金/山城高興)

【追記】山城高興は戦前(昭和13頃?)に没しているようです。

具志堅寛才


画像は近代デジタルライブラリーの「沖縄県立中学校生徒成績表」(明治41)の2学年の成績表(p11、他)の一部分を示したものです。

具志堅寛才さんは士族籍で那覇出身、年齢が13歳11ヶ月ということになるでしょうか。
この具志堅寛才という人が後年の竹野寛才氏ではないかと推測しているのですが証拠を見つけられていません。手掛かりは金城芳子さんの本で、現竹野姓で旧姓具志堅、名乗りが「寛」という人物がいたことだけです。
竹野寛才氏は1896(明治29)年10月3日、那覇区西村生まれで1中卒です(参考)。
ちなみに同学年には徳田球一がいます(p9)。

※※画像を加工していましたが差し替えました(2012.08.22)

知念績正

昭和12年の沖縄県人事録から。

知念績正
酒造業
那覇市山下町1ノ3
君は明治21年を以て首里市儀保町に生る。当家は明治38年厳父績仁氏の創業になり、大正13年9月君之を継承して今日に及べり。其製品の優良なるは業界既に定評あるところにして、各地共進会、博覧会等に出品して前後19回に亙り、一等有功賞其他を受賞せる一事を以て知るに足るべし。(後略)
沖縄県人事録 (抜粋と編集)



図は那覇民俗地図と昭和4年の地図を参考に描きました。奥武山から橋がつく道を境に上が垣花町、下が山下町です。青い四角は養魚池、酒屋のそばからはガジャンビラに向けて糸満行きの線路があります。
知念績正さんの酒屋は那覇市史で大正時代に首里からきた知念ではないかと思われます。

部落は那覇港に面して立地しているため宮古、八重山からの寄留民も多かったが、大正時代に首里三カから、イシチャーグヮー(石川小)、津波古、知念ほか一軒が転入して酒屋を開業していた。
那覇市史資料編第二巻中の7、p54

グダグダ(β) 垣花の酒造所

小禄側から奥武山を望んだ写真で養魚池が確認できます。

那覇まちのたね通信 | 那覇遠景/明治橋を中心とした那覇/中央に風月楼、南明治橋が見える
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=1446

古波倉正栄

昭和12年の沖縄県人事録から。

古波倉正栄
医学博士(古波倉病院長)
那覇市上之倉町2ノ53ノ1
君は明治22年首里市に生る。明治43年熊本医学専門学校を卒業し暫く母校附属病院に於いて研究、大正2年に帰県し、同14年まで首里市に於いて開業、家業頗る隆盛を極めしが、鬱勃たる研究欲は之に満足せず同年再び笈を負ふて上京し、専心研究に没頭すること3年、蛍雪の功空しからず昭和3年医学博士の学位を獲得し、同4年錦を飾って帰県、那覇市に開業して今日に及ぶ。


この人は新島正子さんのお父様です。
上之蔵で開業されていた病院敷地は後年料理学校になったようです。

参考:新島正子 - Wikipedia

山里永吉関連

山里永吉関連をまとめます。
「私の戦後史 第2集」から。

私は明治35年8月18日那覇の上之蔵に生まれた。家は那覇の旧家で素封家である。父は農工銀行に勤めており、辻に貸家を幾つも持っていて財産は相当あったので、子供の頃はあまり苦労を知らずに成長した。そのころの那覇の金持ちはたいてい辻に貸家を持っている。家賃も相当高いしいい収入になった。それで私の家に法事とか祝事がある時には、辻の貸家の女連中が給仕をしたり台所の手伝いをしに多数きたものである。
上之蔵の道向こうには芝居小屋があった。沖縄座とか中座とか球陽座とか。風向きの加減でどうにかすると太鼓の音も聞こえてくるぐらい近い。それで子供のときから芝居が好きでよく見にいったものである。
私の戦後史 第2集 p77


父は農工銀行勤め、上之蔵、旧家ということなので山里永昌が父だと思われます。

山里永昌
県農工銀行書記 沖縄県士族
那覇区上之蔵町2ノ26
明治10年を以て那覇区上之蔵に生る。故父永錫氏は○に那覇区会議員として貢献少からず、又県農工銀行創立の際委員として奔走努力し、創立後第1回の取締役に推薦せられ、斯界の重鎮として嘖々たる令名ありき。君は其長男にして夙に家督を相続し、既に三男三女の児を挙げたり
沖縄県人事録/楢原翠邦編(大正5)


大正2年の辻の家主という新聞記事に山里永昌の名があります(2棟/東村となっている)。
参考:グダグダ(β) 辻の家主

大火で辻にあった貸家は全部丸焼け、保険金は一文もかけていない。それで父は農工銀行を辞めて生前漆器店を始めており、兄貴は勧業銀行に勤めて高給をとっているので辞めようとしない。「お前店番をしろ」というわけで[昭和2年4月]東京から帰った私に申しつけたが、私にはそういう仕事は向かない。店のことはいい加減にして、脚本や評論などを新聞に発表したりしていた。
私の戦後史 第2集 p88
------
父が始めていた漆器店は私に店番をするようにいわれていたが私はそれをしない。それで兄貴は店を他人に譲ってしまった。
私の戦後史 第2集 p87


辻の大火で貸家を失った父(永昌)が漆器店を始め、永昌逝去により東京から帰郷した永吉が漆器店をみるようになったが後年売却。
昭和11年秋、東京の洋裁学院を卒業し石門通り山形屋裏で洋裁店を開いていた豊平勝子と結婚。結婚式は洋装で行うと新聞が報じたため見物人が多数。「私の戦後史」にはウエディングドレスの写真が掲載(p91、92)。
1962年には兼次後援会の支援で那覇北部から立法院議員に立候補するが落選。選挙資金は稲嶺一郎が出した(p107)。
兄は永明、弟は永達。


図は人事録での山里永昌の住所「上之蔵町2ノ26」を昭和4年の地図から探したもの(参照:上之蔵町(昭和4))。
オレンジが辻で手前から1、2、3丁目で劇場は1丁目のそば(参照:上の芝居・下の芝居)にあった。

【追記】山里永吉が発行していた月刊琉球(第2巻第7号/昭和12年)の奥付では「那覇市天妃町2ノ11」が住所となっています。
印刷人は通堂町2ノ1の嘉味田朝茂、印刷所は同住所の向春商会印刷部。

嘉手納並裕

沖縄タイムス社の「私の戦後史 第5集」から角萬漆器社長の嘉手納並裕さんの経歴を要約してみます。

嘉手納並裕
明治42年若狭町生、父並芳、母カマドの長男。
生家は「ヌイムンカデナー」という漆器問屋で職人をかかえて生産もしていた。
那覇尋常高等小学校、沖縄県立工業学校漆工科卒、卒業して17歳で内地に行きあちこちで修行、昭和4年20歳で帰郷する。昭和10年再度上京し昭和14年に帰郷、その後昭和15年徴兵。
昭和20年広東で敗戦、翌年横須賀で復員。宮崎へ向いそこで疎開していた妻子と再開、その年に沖縄へ戻る。体力が回復しない間の手慰みとして作った廃品利用の筆入れと裁縫箱が評判となり商売のようになる。その後天願の630部隊のペンシャープ班長、その時に暇つぶしで描いた絵が好評でジャンパーに絵を描くようになる。仲宗根宗温の「金武湾デパート」に依頼されものを作りはじめる(材料が無いためペンキ塗り)。
昭和23年那覇へ戻るが若狭町は米軍が使っていたためマチグヮーの外れにあるテント小屋に落ち着き嘉手納漆器店を再開する(一年程前に沖縄漆器や紅房は再開していた)。


落ち着いてからの工場の新設や漆器を廻る苦労話等もありますがとりあえず割愛します。

関連:グダグダ(β) 角萬漆器(嘉手納漆器店)

仲地唯謙・唯隆(地蔵仲地)

大正5年の沖縄県人事録から。
画像は沖縄県立図書館貴重資料デジタル書庫の「沖縄県人事録/楢原翠邦編(大正5)」からで、切り出して画像加工してあります。

仲地唯謙
那覇区会議員
那覇区上泉町3ノ9
那覇区泉崎なる地蔵堂の辺り、宏荘○○なる邸宅あり、是れ県下屈指の富豪にして多数の土地家屋の所有者にて、人呼んで地蔵仲地と云ふ、同家の祖先は首里より出でし貝氏にして、俗に久米仲地とも称せり。君幼にして父君を喪ひし為め現商業銀行頭取たる伯父唯隆君同家監督の任に当り、自体其全権を鞅掌して維持経営に努むる事年あり、君は大正4年を以て遂に家督を相続せし今尚ほ同居し居れり。明治19年泉崎の邸に於て生る(中略)同45年に帰郷し(略)遂に家業たる質商を止めて今日に至れり。
沖縄県人事録 (抜粋と編集)


---
仲地唯隆
那覇商業銀行頭取
那覇区上泉町3ノ9
君は那覇区泉崎の素封家として、金権と名望区内に普く、銀行家として敏腕の誉高し。明治5年を以て生る、唯順氏の三男にして、同17年分家して一家を成し、現に五男二女あり。(中略)其趣味としては養鶏を好み、其上泉町の邸宅には数十の矮鶏[チャボ]を飼養し、黎明床を出するや、先ず其鶏鳴を聴いて楽しめりと、邸内珍草異木多く、又盆栽をも好むといふ。
沖縄県人事録 (抜粋と編集)



上泉町(湧田)の旧家出身者ですね。

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