山里永吉関連をまとめます。
「私の戦後史 第2集」から。
私は明治35年8月18日那覇の上之蔵に生まれた。家は那覇の旧家で素封家である。父は農工銀行に勤めており、辻に貸家を幾つも持っていて財産は相当あったので、子供の頃はあまり苦労を知らずに成長した。そのころの那覇の金持ちはたいてい辻に貸家を持っている。家賃も相当高いしいい収入になった。それで私の家に法事とか祝事がある時には、辻の貸家の女連中が給仕をしたり台所の手伝いをしに多数きたものである。
上之蔵の道向こうには芝居小屋があった。沖縄座とか中座とか球陽座とか。風向きの加減でどうにかすると太鼓の音も聞こえてくるぐらい近い。それで子供のときから芝居が好きでよく見にいったものである。
私の戦後史 第2集 p77父は農工銀行勤め、上之蔵、旧家ということなので
山里永昌が父だと思われます。
山里永昌
県農工銀行書記 沖縄県士族
那覇区上之蔵町2ノ26
明治10年を以て那覇区上之蔵に生る。故父永錫氏は○に那覇区会議員として貢献少からず、又県農工銀行創立の際委員として奔走努力し、創立後第1回の取締役に推薦せられ、斯界の重鎮として嘖々たる令名ありき。君は其長男にして夙に家督を相続し、既に三男三女の児を挙げたり
沖縄県人事録/楢原翠邦編(大正5)大正2年の辻の家主という新聞記事に山里永昌の名があります(2棟/東村となっている)。
参考:
グダグダ(β) 辻の家主大火で辻にあった貸家は全部丸焼け、保険金は一文もかけていない。それで父は農工銀行を辞めて生前漆器店を始めており、兄貴は勧業銀行に勤めて高給をとっているので辞めようとしない。「お前店番をしろ」というわけで[昭和2年4月]東京から帰った私に申しつけたが、私にはそういう仕事は向かない。店のことはいい加減にして、脚本や評論などを新聞に発表したりしていた。
私の戦後史 第2集 p88
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父が始めていた漆器店は私に店番をするようにいわれていたが私はそれをしない。それで兄貴は店を他人に譲ってしまった。
私の戦後史 第2集 p87辻の大火で貸家を失った父(永昌)が漆器店を始め、永昌逝去により東京から帰郷した永吉が漆器店をみるようになったが後年売却。
昭和11年秋、東京の洋裁学院を卒業し石門通り山形屋裏で洋裁店を開いていた
豊平勝子と結婚。結婚式は洋装で行うと新聞が報じたため見物人が多数。「私の戦後史」にはウエディングドレスの写真が掲載(p91、92)。
1962年には兼次後援会の支援で那覇北部から立法院議員に立候補するが落選。選挙資金は稲嶺一郎が出した(p107)。
兄は永明、弟は永達。

図は人事録での山里永昌の住所「上之蔵町2ノ26」を昭和4年の地図から探したもの(参照:
上之蔵町(昭和4))。
オレンジが辻で手前から1、2、3丁目で劇場は1丁目のそば(参照:
上の芝居・下の芝居)にあった。
【追記】山里永吉が発行していた月刊琉球(第2巻第7号/昭和12年)の奥付では「那覇市天妃町2ノ11」が住所となっています。
印刷人は通堂町2ノ1の嘉味田朝茂、印刷所は同住所の向春商会印刷部。
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