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米以外での酒造 2

米以外での酒造の続きです。
「泡盛とともに/佐久本 政敦」が掲載されている瑞泉酒造のサイトから「米以外で造られた酒」の記述を抜出します。

 昭和25(1950)年7月に発令された「酒の醸造及び酒造税法」では、酒税免許についての取り決めと同時に、原料についても言及されている。それによると「甘藷、甘庶のしぼり汁又は黒砂糖以外に酒の醸造に用いる原料は人畜の食糧及び飼料に適しない食料品に限る」とあり、さらに、不良食品証明書がなければ原料として用いてはならないという規定もある。
そのうち原料の内訳は米以外に砂糖、藷、澱粉、蔗汁が使われ、それぞれかなりの数量 が使用されている。このように当時は米以外の原料が多く使用されていた。
 現在、黒糖を原料にする酒類は、奄美群島にしか許可されていない。今にして思えば沖縄にも黒糖を原料とする酒を残しておけばよかったと悔やまれる。
密造酒と酒造所の民営化(2)

酒造民営化によって、各地で盛んに酒類が製造されるようなった。しかし、原料が米だけではなかったために、純粋の泡盛というよりも、新式焼酎(甲類)や合成酒、雑酒のようなものがほとんどであった。合成酒や雑酒は、いわば模造酒であって、密造酒時代からの惰性をひきずって、自家製造の焼酎や連続式で蒸留した酒に薬品類を添加して配合したものである。
琉球酒造組合連合会の結成

タイ砕米の購入の道がひらけたおかげで、島内酒の原料も従来の黒糖分蜜糖から米に転換され、1950年代半ばには米を原料とした泡盛が85パーセントを占めるようになった。
泡盛産業株式会社の設立(1)


酒類需要が官営5酒造厰だけでは対応できず、「密造の焼酎(甲類)」「合成酒(蒸留した酒に薬品を配合した酒)」「雑酒」を販売する業者が乱立したと「酒連50年」には書いてあります。
「酒の醸造に用いる原料は人畜の食糧及び飼料に適しない食料品に限る」という条件から様々な材料で酒が造られたのですが、米の供給が安定してくると泡盛(乙類)中心になってゆきます(甲類にひっくり返されるのですが)。

1961(昭和36)年に太陽醸造(ヘリオス酒造)が那覇でラムを製造する酒造所として誕生しているようですが酒造組合名簿(1962)では太陽醸造の名前は確認できません。

1961年 - 松田正が那覇市にて合資会社太陽醸造を設立。
ヘリオス酒造 - Wikipedia

1961年、ヘリオス酒造はラム造りからスタートしました。
http://www.helios-syuzo.co.jp/about/helios/helios03/index.html
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米以外での酒造

米以外を原料とする酒のことを「酒連50年」から抜粋します。

王府の考え方は「規模帳」といわれる統治の布達事項を示した資料にみえる。それによると、焼酎(=泡盛)を造ることは穀物の浪費になり、上納の妨げ、そま山の荒廃、さらには酒宴による風俗の乱れとなり、ムラの衰微につながるというものであった。そのため、製造及び商売、飲酒は厳重に取り締まることが定められていた。 p27
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いずれにせよ18世紀末から19世紀前半にかけての史料から、宮古や八重山、沖縄本島周辺の久米島、慶良間諸島などでも盛んに泡盛が造られていたことがわかる。p28
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王府の政策上の立場とは反対に、各地での泡盛の密造や販売はあとをたたず、ひどく手を焼いていた。p28
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宮古では(略)自家消費傾向が強かったようである。それにこの酒は米を原料とした泡盛ではなく、甘藷[芋]を原料にした芋焼酎であったことがわかる。地方の酒屋では似たような状況で、甘藷や黍、粟などを原料にした焼酎が造られ、米を原料にした泡盛は地域的にかなり限定されていた。p29、p30
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八重山諸島の離島では自家醸造が大正期まで認められ、自家消費的な酒造が行われた。 p31


基本的に穀物を使う酒造りは王府には歓迎されず取締対象です。
米がなくても他の作物(イモ・キビ・アワ)などで製造されたようですから、米以外を原料とした製法も伝わっていたことがわかります。ただし米以外の製造を行っていたのは地方で、現地で製造し消費する自家消費的な小規模生産だったようです。
そして戦後は米軍の余剰米での酒造と米以外での酒造(と密造)になります。

この頃は、米軍の残飯からリンゴなどの果実を採取してドラム缶に入れて発行させ、ワインのような酒や黒糖・分蜜糖、いもなどで焼酎を作って飲んだり、旧日本軍が箒した燃料用アルコールを水割りにして飲んでいた(略)p41
---
酒類の需要は官営の5酒造厰では対応できず、自家製(密造)の焼酎(甲類)、合成酒(蒸留した酒に薬品を配合した酒)、雑酒をつくって販売する業者が乱立した。
この頃の酒造業は185工場が創業していたが、蒸留技術や設備も貧弱の上、雑穀を原料としていただけに品質も悪く、また、価格も統一されていなかった。
この頃には酒類の密造業者も乱立、同年[1947]4月には密造業者の一斉取り締まりが断行され、251件の違法業者が検挙された。 p41、p42


関連:グダグダ 官営の酒造所

久米仙酒造

現在は仲井真にある「久米仙酒造」のサイトと「酒連50年」から引用します。
「久米島の久米仙」は久米島にあり、「久米仙酒造」は那覇にありますのでご注意。

設立 1952年11月19日
1952(S27)年 那覇市大道に資本金US$10,000で創業
1978(S53)年 泡盛業界初の卓上ボトル「久米仙グリーンボトル」を発売
1986(S61)年 現在地(那覇市仲井真)に工場を移転し、生産量を3倍にする。

http://www.kumesen.co.jp/modules/menu/main.php?op=change_page&page_id=30


昭和27年に久米島から那覇市大道に移り、資本金10000米ドルで創業。
酒連50年 p179


大道での住所は「大道207の1」だったようで、「那覇市新旧住所検索システム」で検索すると「三原1丁目29番27号」になるようです。現在は駐車場になってるみたいですね。
参考:那覇市三原1丁目29番27号 - ストリートビュー


昭和中期のゼンリン地図で見てみると上の図のポインタの位置は「久米仙酒造」ではなく「ずいせん酒工場」となっています。何故そうなってるのかはわかりませんがとりあえず地図のポインタの位置に酒工場があったのは確かです。

泡盛以外のブーム 2

引き続き瑞泉酒造の語り部の庵から。

このころの業界動向をふりかえってみると、昭和33(1958)年十月には、ビール工場設立の免許が下り、更に昭和36(1961)年7月サントリー系、同年12月にニッカ系ウイスキー工場が認可された。また、昭和41(1966)年十月には清酒工場の免許が下りた。このような大型工場の進出によって、酒造業界の競争はいよいよ激化し、零細な泡盛の廃業が続出するようになった。設立された大型工場のうち、ウイスキーとビールは、年々順調な伸びを示し、昭和47(1972)年度にはビールが20413キロリットル、ウイスキーは2096キロリットルを生産するまでになった。泡盛は値段が安く、少量で酔いがまわるので、飲み屋では敬遠され、ほとんど売られていなかった。
https://hs32.drive.ne.jp/zuisen.co.jp/aboutus/legend/article_33.html


ビール工場はオリオンビールですね。

アメリカ合衆国統治下の1957年5月18日に、社会経済復興には第二次産業を興さなければいけないという志から、当時から名水が湧出していた名護町で沖縄ビール株式会社として設立された。
オリオンビール - Wikipedia


ニッカは繁多川、サントリーは安謝だったはず。清酒は「泰石酒造」でしょうか。
1962年の酒造組合名簿では以下のようになっています。
 >54.泰石酒造株式会社/泰石・コーラルドライ/具志川村字多良川
泰石酒造のサイトでは以下のようになっています。

昭和27(1952)年 設立登記、酒製造免許交付
昭和28(1953)年 焼酎製造開始
昭和30(1955)年 泡盛製造開始、ウイスキー製造開始
昭和34(1959)年 リキュール製造開始
昭和42(1967)年 清酒製造開始
昭和56(1981)年 酒みりん製造販売開始
平成14(2002)年 ハーブ焼酎&泡盛製造販売開始

沖縄県うるま市字平良川90番地
http://www.taikokushuzo.com/company.html(省略と修正)


「酒連50年史」と1958年の住所録から引用します。泡盛以外のブームで触れたような乙類ではない酒を武器にしていたのでしょうか。

具志川村では、第一号の株式会社として安田繁史によって設立された。連続式蒸留機による焼酎甲類を製造販売した。そして、醸造学を学んだ安田が生み出したブレンド比率で、泡盛と焼酎甲類のブレンド酒を生み出す。
酒連50年史 p193(省略と抜粋)

泰石酒造株式会社
泰石正宗、泰石焼酎、宝泡盛、薬用アルコール、コーラルジュース、コーラルコーラ
安田繁史、座間味盛保、照屋寛敏、安田善治
住所録(1958年)



泡盛以外のブーム

瑞泉酒造のページに佐久本 政敦さんの「泡盛とともに」が掲載されています。「酒連50年史」には書かれていない事情も書かれてありますのでそのあたりを取り上げたいと思います。
戦後の泡盛は外からの酒に押されて衰退してゆきますが、それに対抗するように酒造所は焼酎甲類を製造するようになってゆきます(泡盛は焼酎乙類)。

戦後、アメリカ軍によって、ウイスキーやブランデーなどの洋酒がもたらされ、それまで酒と言えば泡盛しかなかったこの沖縄に、さまざまな酒が出回るようになった。日本製のウイスキーやビールなどはあまり手に入らず、飲み屋では米軍から流れてきたウイスキーばかりが幅をきかしていた。ウイスキーをコーラで割った「コークハイ」が一世を風靡する時代であった。
 泡盛は、香りで飲むとされているが、若い層には麹の臭いが鼻につくのか、敬遠される傾向があった。そこで無臭泡盛を一部で試験的に造って販売したところ、予想以上に受けたため、糖蜜を主原料にした甘味のある無臭泡盛の醸造が行われるようになった。なかでも、1960年代の前半に市場の8割を占め、米兵にも飲まれたのが「自鷺」という焼酎甲類である。これはAサインを受けた焼酎で、飲み屋という飲み屋を席巻した。特にコザ署管内では、焼酎甲類の攻勢はすさまじく、20数場あった泡盛業者をわずか数場を残して、転廃業に追い込むほどの勢いだった。

昭和27(1952)年度の酒類製造場は、焼酎甲類1軒、泡盛(焼酎乙類)156軒で、生産量は焼酎甲類が年間180キロリットル、泡盛(焼酎乙類)2500キロリットルの計2680キロリットルで、圧倒的に泡盛(焼酎乙類)の生産量が多かった。それが昭和38(1963)年度になると、焼酎甲類が3568キロリットルに対して、泡盛(焼酎乙類)3444キロリットルと、ほとんど同量の生産高を示すほどに、甲類の需要・供給が増えていた。

昭和28(1953)年度から昭和32(1958)年度の五年間は、特に合成清酒と雑酒(ポートワイン類)の伸びた時代で、年間約4000キロリットルの生産があった。このため、泡盛業者の多くが合成清酒又は雑種の免許を受け、泡盛(焼酎乙類)を原料とした合成清酒や雑酒を製造していた。

昭和37(1962)年の酒造組合名簿、商標一覧を見てみると、当時の銘柄の中には「ゴールデンウイスキー」や「タカラソフトワイン」、「ラムスイート」「ラッキーワイン」「スロージン」というカタカナの洋酒の銘柄が並んでいる。

https://hs32.drive.ne.jp/zuisen.co.jp/aboutus/legend/article_31.html


これはライフスタイルの変化もあると思うんですよね。
チューカーから小さな杯にいれてストレートでちびちび飲むというのはほぼ廃れました。深夜の飲屋でガバガバあおるように飲むには味のしっかりしている酒は向いていなかったのでしょう。
ここではさらっと触れる程度にしたいので興味のある方は生産量等のデータもある「酒連50年史」を参照して頂きたい。当時の生産量や背景等も同時に読まないと詳細なことはわからないうえ、泡盛業界だけの話では全体がわかりにくいです。
酒造組合名簿からあげられた名前を抜出します。

12.琉球酒造株式会社/新世代・ゴールデンウイスキー/那覇市字繁多川
32.仲順酒造場/宝船・タカラソフトワイン/浦添村字仲間
39.三光洋酒株式会社/Rumsweet・三光/浦添市字牧港
42.中央醸造化学研究所/ラッキーワイン・スロージン・乙姫/宜野湾村字大山


甲類の「自鷺」は「合資会社諸見里酒造工場」のようです。

51.合資会社諸見里酒造工場/白鷺・富士/具志川村字喜屋武

検索すると消滅して復活したようですね(諸見里酒造工場 - Google 検索)。

津波古酒造場/太平酒造場

現在の津波古酒造場は酒造組合名簿(1962)では太平酒造場になっています。

33.合資会社太平酒造場/太平/那覇市字与儀

ここは戦後最初に製造許可の出た那覇市の4人(県全体77人)のうちの一人、津波古さんの酒造所です。

那覇市 新垣芳春、仲本興公、神村盛英、津波古充章
酒連50年史 p40〜42(省略と抜粋)
グダグダ 官営の酒造所


酒連50年史から津波古酒造場の項目を引用します。

津波古酒造場は、明治31年に現在那覇軍港である那覇市垣花で津波古充通により創業。大正15年に、2代目津波古充章に引き継がれた後、「太平」の銘柄で販売を開始した。
終戦後の昭和24年、現在地の那覇市与儀にて操業を再開した。
酒連50年史 p177(省略と抜粋)


那覇市史の垣花の項目にはこう書かれています。

部落は那覇港に面して立地しているため宮古、八重山からの寄留民も多かったが、大正時代に首里三カから、イシチャーグヮー(石川小)、津波古、知念ほか一軒が転入して酒屋を開業していた。
那覇市史資料編第二巻中の7、p54



図は「戦前の垣花民俗地図」を参考にしていて緑が津波古酒造です。
戦後与儀に移ってからはそのまま現在も同じ場所で営業しており、タンク跡から与儀大通りにでる手前あたりの路地奥に小さな工場があります。

参考:那覇市与儀2-8-53 - Google ストリートビュー

神村酒造

戦後しばらく官営工場として泡盛を製造した時期がありました。県内に5つあった工場のうちの一つ「真和志酒造廠」の工場長が神村盛英さんです。

真和志酒造廠 神村盛英工場長(那覇市国場)
酒連50年史 p40


「酒連50年史」の中にある神村酒造の項目を引用します。

明治15年(1882)、神村盛真により那覇市繁多川の地で創業。大正11年、2代目神村盛仁の他界により3代目神村盛英が14才の若さで家業を継ぎ、戦前戦後「神村の泡盛」を支えた。
昭和22年、琉球民政府財政部直属の官営5工場が設立され、戦後泡盛製造が始まり、神村酒造は、那覇市樋川の国場川沿いで官営の工場として事業を開始する。翌年、工場を現在本社の在る那覇市松川へ移転し、昭和24年には、酒類製造免許が交付され、官営工場から民営工場に移管され、神村酒造所としての製造が始まった。
平成11年石川高原の麓(石川市嘉手刈)に酒造所を移転。
酒連50年史 p183(省略と抜粋)


この本では本社は那覇市字松川301(那覇市松川301 - Google マップ)になっていますが本社も石川に移転したようです。

2004年4月、沖縄県石川市(現うるま市)嘉手苅に本社を移転。
http://www.kamimura-shuzo.co.jp/info.html


同じページから写真を拝借... 昭和24年の松川工場だそうです。


酒造組合名簿(1962)では14番になっています。
14.合資会社神村酒造所/神村/那覇市字松川

官営の酒造所

戦後の酒造業は官営からスタートしています。
国場には真和志酒造廠があり、この酒造所は後年神村酒造になります。

酒造試験場 幸地幸啓工場長(金武村字伊芸)
真和志酒造廠 神村盛英工場長(那覇市国場)
首里酒造廠 佐久本政良工場長(首里崎山町)
伊芸酒造廠 崎山起松工場長(金武町字伊芸)
羽地酒造廠 大城孫吉工場長(羽地村字仲尾次)
酒連50年史 p40


戦後の官営酒造所の成り立ちについて引用します。

産業経済も米占領軍が通貨(B円)を発行することに伴って活発化し、1946(昭和21)年4月、沖縄民政府財務部が管理する酒造業が発足した。
原料は米軍の余剰米で、米軍施設跡や戦前の民間酒造工場跡を改造した手作りの設備で酒造が始まった。
各工場長は沖縄民政府財務部主税課の職員として、酒造再建に尽力した。蒸留機など必要な設備は兵器の残存部分や軍用物資を用いた。酒の供給は専売制となり、製品は各地域の売店で販売され、民政府の財源になった。
1948(昭和23)年5月19日、沖縄民政府は酒造業を民営化し、配給機構、官営制度を廃止する方針を決定した。翌年1月1日付けをもって酒造業の民営化が許可され、229県の申請者の中から次の77件に免許が交付された。

那覇市 新垣芳春、仲本興公、神村盛英、津波古充章
首里市 佐久本政良、玉那覇有義
酒連50年史 p40〜42(省略と抜粋)


「酒連50年史」には後半に酒造所の歴史をまとめたものがあるのですが昭和23・24年に始まるところが多いです。

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