
図中の左は「那覇市旧跡・歴史的地名地図」を基にしたもの、右は那覇民俗地図を参考にして作ったものです。
※「那覇市旧跡・歴史的地名地図」は「ジャーグヮー墓地」となっています。

この図は
旧那覇の歴史・民俗地図での画像をトレースして、
門中墓地(A)、二ツ松尾(B)、一ツ松尾(C)を書入れたもの。

この写真は
壺屋(1945)で取り上げた「那覇市壺屋地区における石敢當と集落形態」に掲載されている1945年の写真をもとに、ひめゆり通りからグランドオリオン前を経由して国際通りに至る道と国際通り(当時新県道)と上の図で取り上げた箇所をポインタで示したものです。戦前の希望ヶ丘一帯がどうなっていたのかはいまのところわかりませんが写真では民家等はないように見えます。地形的な制限(崖)や墓地の存在などから想像すれば寂しい場所だったんではないでしょうか。
牧志生まれの高良嘉永さんの自伝から引用します。
小禄から牧志に移住して来たのは、根屋(ニーヤ)の越来の高良、神歌(ウムイ)の嘉数、大根(ウーニ)の嘉数、山当(ヤマタイ)の比嘉、東水張(アガリミジハイ)の高良、八幡の高良の6門中である。
我家の大元屋(ウフムートゥヤー)はウーニの嘉数で、現在高校教諭のKSが当主を務める。中元家(ナカムートゥヤー)は、目下TSで、中元家から分かれて私は6代目にあたる。
p2
戦前まで高良家祖先累代の墓は、牧志町1丁目135番の当時俗称ジョー小墓地(現希望ヶ丘公園)にあった。小高い丘に4、50基の墓があり、老松が点在していた。高良家の墓地は112坪で、墓の入口近くの両横に幹周りが4メートルも在る老松が高くそびえていた。
先祖に恥じない自慢の墓であったが、昭和19年11月下旬、皇軍が無断で、我が家の墓から厨子甕を取り出し、墓庭の澄みに片付けてあることを聞かされた。早速皇軍にかけ合ったところ、対戦車砲を入れるのに良い陣地だと言われた。当時、皇軍は敵上陸に備えて陣地構築に懸命であり、一帯は陣地として使用され、墓と墓とは横穴式に通路をつけ、墓から竪穴を掘って2、300人は収容できる防空避難壕に通じていた。
p106,107
高良嘉永人生記 働きざかり・花ざかり (抜粋と編集)希望ヶ丘公園一帯のジョーグヮー墓地は牧志の門中墓地であったようです。
参考:
グダグダ(β) 牧志のムートゥ(2)参考:
グダグダ(β) 牧志のムートゥPR