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母子センター通り(69年)

ゼンリン地図69年版での母子センター通り。ピンク色で示した箇所は店舗などの商業関連です。
商店、風呂屋、電気店、食堂、パン屋、プロパン、小鳥店、鮮魚店、理髪店、美容院、化粧品店、履物店、質屋、文具店、玩具店、菓子店、クリーニング店、精肉店、薬局、洋裁店、印刷所、畳屋など。

知事公舎近くということもあってか公共的要素をもった施設がいくつかあります。
宮城原保育園は実業家の金城キクさんが1962年に設立されています。

以下余談。
宮城原の範囲。宮城原は1947年に開放されています。
寄宮
戦後住む場所が無くなってしまった人達は寄宮一帯ほかに移住しています。

現在の新都心、天久・銘苅はいったん開放されていたところを1951年に再接収されています。銘苅にあった銘苅御殿(拝所)は義肢補装具製作所の向いあたりに移されましたが、新都心が整備されてきたので元の場所に戻ったようです。なんですが寄宮の銘苅御殿(跡?)もきれいに掃除されていて現在も拝みに使われているような雰囲気なんですよね。このへんはどうなっているのかよくわかりません。

戦前の一帯。
宮城原はもともと与儀の耕作地だったようですが、戦前に農業試験場用地になっています。公用地なので公的施設などが作りやすく、移住にもすぐ対応できたんでしょう。
47年頃の寄宮
1947年頃。この図は米軍の空撮をもとに作成された那覇市復興地図を模写したものです。
1947年に宮城原が開放された当初は真和志村役場周辺を中心として人が住んでいたわけです。図中赤で示した道は45・46年の地図には存在しませんが47年になって出現しますので、おそらく開放と同時に作られたのだと思われます。この時期は神里原が一番の繁華街だった時期でもあります。

土地収用による行政主導の移住ですから、区画も碁盤目でつくられていて敷地もだいたい一定です。

那覇まちのたね通信 | 那覇(真和志村)/与儀試験場地内移動部落/1950年6月8日、米軍は天久、上之屋一帯の立ち退き命令を出した/写真の移動部落は現在の寄宮1丁目辺り/中央の森は知事公舎裏
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=1804
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Comment

無題

  • zu2
  • 2012-03-07 03:12
  • edit
懐かしいですね。ちょうど69年ごろ、通っておりました。どんな店があったかは全然覚えていませんが。

Re:無題

  • No Name Ninja 〔管理人〕
  • 2012-03-07 19:32
このころの母子センター通りは小さな商店街のような感じですね。
最近本屋さんと十字路角にあった奥間商店が閉店されたようです。

無題

  • zu2
  • 2012-03-09 02:53
  • edit
あの本屋さんなくなっちゃったのか…
希少な本がタイムスリップしたかのように残ってるんで、買っておけば良かった…
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