拓南製鉄の古波津清昇さんのエピソードで面白いとこがあったので引用します。
発電機をおこして附近の美粧院(パーマネント)や民家に送電したり、ランプ暮らしの那覇市内で初めて電燈を灯したり、現在の新天地市場内で「那覇農産加工場」の看板をかかげ、精米、製粉、圧麦、製麺にとりくむかたわら、アイスケーキや冷凍菓子、玄米乳、豆乳なども製造する。あるいはアメリカ製粉乳を仕入れて乳酸飲料(ヨーグルト)を最初に手がけたのも古波津会長であった。
沖縄経営者列伝 p86(抜粋と編集)東風平村にはまだ一軒もなかった精米所を旧軽便鉄道跡の[東風平村]屋宜原駅跡に建設することにした。だが業者を信じ「あなた任せの武士の商法」で見事に失敗してしまった。
再建策を模索する日々を重ね、必死の思いで製粉機械を設計。自作の図面を持って西原村の鉄工所に製作を依頼し、2ヶ月後には素晴らしい高能率の製粉機が完成した。
当時、米国政府の配給物資にトウモロコシが大量に配給されたことを知り、那覇市の神里原に住む知人の軒先を借りて、製粉機を設置することにした。トウモロコシの製粉事業は早朝から夜遅くまで人が列をなし大繁盛した。
1年後には資金の余裕もでき、本土から精米機と籾槢機、県内で米国製エンジンを購入した。閉鎖していた東風平村屋宜原の精米所を再稼働。今度は機械の調子も良く、こちらも大繁盛となった。
那覇での事業も好調で、神里原から平和通りに移り、精米や製粉だけではなく、農業試験場から休止中の冷凍機を借りて改造しアイスケーキも製造した。そのころの平和通りは香港や台湾、本土からの密輸品や米軍からの横流し品などを持ち寄る人が自然発生的に増えて、真っ昼間から堂々と闇市が開かれていた。
食品加工事業を拡大させようと、那覇市農業会が管理していた現在の新天地市場の土地250坪を買い受けた。当時は四方を川に囲まれた三角島で埋め立てが必要な土地だった。米軍が放置した鋼管や電柱を川の上流から下流へと川沿いに引っ張って来て橋をかけ、数台の荷馬車を雇って土を運んで敷地を造成した。大型テントを2棟張って機械を据え付けて工場にし、トタン屋根6坪の住宅を建てた。
同地に移転した翌年の1952年に琉球復興金融基金が発足したので、融資を受けて、テント張りを木造セメント瓦屋根45坪の工場に改築し、「那覇農産加工場」の看板を掲げた。そこでは、精米、製粉をはじめ、豆腐、アイスクリーム、製麺、漬物などあらゆる食品加工を手掛けた。
豆腐製造はまず大豆から油を搾り、おからでみそを作った。油に香水を混ぜて整髪油として売り出したらいずれも飛ぶように売れた。そのうち八重山や久米島、徳之島、奄美大島などから買い集められた麦やもみなどを仲買人から一括して購入し、離島からの物資入荷による市況を見ながら精米や押し麦などの加工販売をするようになった。
---
[61年設置の製鋼工場建設の資金難のため]そこでやむなく、那覇市松山の現日銀那覇支店跡地と、苦労して埋め立て造成した那覇市6区(現新天地市場)の那覇農産加工場の土地と建物を売却して、その代金で輸入機械の代金の決済をした。
p247
沖縄列伝 戦後史の証言者たち p238~241、p247(抜粋と編集)拓南製鉄(昭和31年6月1日に壺川に設立)の歴史についてはこちら。沖縄県内の鉄筋とか釘はほとんどこちらの製品ではないでしょうか。
http://www.takunan.co.jp/takunanseitetsu.html「沖縄列伝 戦後史の証言者たち」(琉球新報社)に掲載されているプロフィールを抜粋します。
1923(大正12)年、東風平村生まれ、40年八重山農学校卒、41年県農会技手。52年拓南商事、56年拓南伸鐵(現拓南製鐵)を設立。61年沖縄初の電気炉製鋼工場を完成させる。83年県工業連合会長、現在拓南グループ10社の会長を務める。
沖縄列伝 戦後史の証言者たち p223(抜粋と編集)※この項目は「古波津清昇」から「那覇農産加工場(古波津清昇)」と変更し小波津さんは後日に単独項目として取り上げます。
PR