沖縄県人事録(大正5)より花月を抜粋します。
花月 和洋料理店
本店 那覇区西新町三丁目
支店 通堂町三丁目
那覇区における四大料理店の中、操業以来もっとも日浅き花月は、概にして依然頭角を現し、今や多大の人気を得て隆盛しつつあり、同店は元埋地の一隅に極めて小規模のものを設立せるに始まり、このあと数年を出でずして大発展を来し、新埋地なる海岸に宏壮精麗なる数棟の建築を起し、爾来拮据経営して日と共に隆盛に向かい、現今春子、富子、三次、小六、繁子等多数の美妓を擁して人気を一手にあつめ居れり。而してその特色と見るべきは、室内の装飾雅致に富めると、料理の新鮮美味なると、何となく落ち着きて愉快に遊興し得らるる点にあり。大正四年の夏より翠緑滴る奥武山公園の麓に支店を設け、主として西洋料理営業し、県下模範的ビーヤホールの称を得て是亦隆盛を極めつつあり。西新町の埋立地に小さな店を始め、そのあと数棟を擁する大店舗になったということです。
奥武山にも西洋料理主体のビアホールを出店するなど凄い勢いです。ビール等もまた寄留商人の手によるものだったりするのですけども。

写真は「昔の写真と資料 セピア色に退色した昔の写真で見た光景」様よりお借りしています。
いつもありがとうございます。m(_ _)m
この写真は大正初期の写真だそうですので引用した人事録が書かれた時期の姿ですね。
http://blogs.yahoo.co.jp/pusan_de/2219187.html西新町の隆盛については断片的な情報が多く、項としてまとめるのに時間がかかりそうです。この花月なども民俗地図などには記載がないです(昭和初期相当の地図なので消滅の可能性がありますが)。
当時奥武山はレジャー地でもあり運動会などのイベントが行われる場所でもありました。明治橋のそばには風月楼(御物城跡)、島の中には池があり、弁財天、世持神社(儀間真常と野国総管)、龍洞寺などがありました(那覇民俗地図による)。
参考:
奥武山PR