戦争後の旧居住地への住民帰還と米軍駐留による土地利用制限があいまって暫定的にスタートした土地割当制度。国場誌から簡単な説明を引用して説明します。
戦後は割当地と称し、松尾、壺川、壷屋等の住民が、自分の地への居住がかなわず一時的な処置として、行政側の一方的な指導のもとに勝良又原に住居を構えた。土地の境界確認もないままに住宅が立ち並び、境界の確認混乱地域になり、現在に至っている(寄宮中の裏門向かい側付近)。
国場誌 p90 これは国場の
勝良又原の説明部分です。近くには寄宮十字路近辺の混乱もあります。
参考:
グダグダ 寄増原・洗田原・宮城原 2(寄宮 3)参考:
グダグダ 寄増原・洗田原・宮城原(寄宮 2)参考:
グダグダ 天久の地縁 3(平野区)参考:
グダグダ 大原区(寄宮)公用地の解放などであればいいのですが土地所有者の意志に関わらず進められたケースは様々な問題を起こしています。根本的な解決はなされず引き延ばすような手続きが行政によっておこなわれました。
この辺は法律上の扱いや那覇市議会での議論等で参照できますが長くなるので割愛(or後日)。
那覇市史からこの問題の厄介さがわかるような部分を引用します。
また戦災によって土地の所有関係を記録した公簿や公図がほとんど消失してしまったため境界も分からない場所がたくさんでてきた。
このような事情からとられた特別措置が「割当土地制度」であった。これは当面の緊急の必要から住宅・農地などの個人所有地や公有地について市町村長や米軍地区隊長の権限で土地を割当てて利用させようというものである。
また土地所有者は割当を受けた人々から地代をとってはならず、立ち退きを要求してはならないとされていた。
那覇市史 資料編第3巻の1 p193(省略と編集)混乱の原因は、公簿・公図の消失、圧倒的な土地不足、(最初のみ)賃借ではないことなどで、その後も那覇市の土地不足は解消せず仮住居は大部分がそのまま本居住になってしまいました。
これは戦前戦後の生活環境の大変化があり、農村から都会へ、消費社会的ライフスタイルの定着、米軍へ依存した中南部の基地ベルト地帯への人口集中もあげられるかとおもわれます。
那覇市のような住宅地・商業地の場合、「3年を経過」したからといってすぐ立ち退かせるということはできなかった。市街や離島からの大量の住民流入によって那覇市の住宅難は言語に絶するものがあり、間借りの間借りといった状況で借地人、借家人の権利義務関係は複雑であった。
那覇市史 資料編第3巻の1 p195ある程度の年数経過による制限等で解消しようという意見もあったようですが、立ち退きになったところで次の受け皿になるべき住宅地は用意できず住民流入は続いているのですから割当地の解消は路上に放り出すのと同義です。戦中戦後の経験のなかでお互いの困難な状況を理解している同士ですから無茶なことは出来ないというのもコンセンサスとしてあったのでしょう。
離島や地方からの住民流入の痕跡は新しく開発した土地や公有地の売却等があった場所などに今も残ります。
平和通りの商人は離島出身者が多いですし、若狭周辺のホテル旅館経営者にも離島出身者が多いです。また栄町は出身地域によって店舗の場所が二分されています。
この辺の機微は那覇に古くから住んでいる人なら当たり前のように知っていることなのですがこういうこともわからなくなってゆくのでしょうね...
PR