「なはわらび行記」からですが、義彰さんは子供の頃見た中国人らしい曲芸師のことを「ホーカー」と呼んでいたと書いています(p42)。
曲芸師の大人の格好は憶えていないが、少年たちは「丸刈りで、額の上に、ひとつかみほどの頭髪を残して」おり、「売られたものであり、訓練の後には必ずアマジャキ(酢)を飲まされる」という噂を聞かされたそうです。
また金城朝永氏による「琉球では軽業の事を今でも放下と言っています」という論文の一節も引用され語源や由来の考察も引用されていますが、最後に義彰さんはホーカーの由来や時代的背景は専門家に任せるがとにかくホーカーを憶えてるんだよといって締めておられます。
自分も由来や語源に関しては考えず、昭和初めの那覇には中国人と称する軽業師がいてホーカーと呼ばれていたということだけを憶えておきたいと思います。
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