船越義彰さんの「なはわらべ行状記」から抜粋します。
1926年、大正15年那覇生まれの義彰少年(と親しげに呼びたい)の見た那覇が愛情を込めて描かれています。数々のエピソードの中で出て来る人達、ヤッチー達が戦争で帰らなかったことを思うと何ともいえない気分になります。
ところが旧家のハンシー(ばあさま)のなかには、この文明の利器たる電気扇をわが家に入れることを拒んでいる方もいた。「電気扇はウカーサヌ(あぶない)」というのである。あのヒコーキのプロペラのようにまわる羽に子供が指をつっこんだらどうなるか。寝ているうちに髪を巻き込まれたらどうなるか(当時の女性はみんな髪が長かった)、という心配もあったろうが、電気というものへの拒否反応が最大の原因であったと思う。電気は通じる(感電)。ハンシたちにとって、電気はやはり紅毛の不可思議国のエレキという感覚でしか受け止められていなかったのだ。
ところが旧家ともなれば、夏への対策は、これはまた贅沢なものであった。まず、敷物は藤のむしろをしきつめてあった。ひんやりとした敷物(むしろ)である。つぎに、扇風機にかわるものとして、風袋(カジブクル)があった。
風袋とは、メリケン袋のようなものを、いくつもつなぎあわせ、それを棹にくくりつけ、鯉のぼりのように高く掲げる。そして末端は座敷の中に入っている。風袋--というより、ぼくは風筒と呼びたいこのしかけは、中天の清らかな風を、そのまま家の中に流し込むのである。扇風機を電気扇と敬遠した当時のお年寄りにはこのように、地上十数メートルを吹き渡る風を、そのまま自分の側に呼び寄せることができたのである。
なはわらべ行状記 p121,122那覇の石垣に囲まれた旧家から棹につけた吹き流しのような風袋が掲げられているのを想像してみると面白いです。この風習も安い布が出回るようになった後からではないかと推測しますがどうなんでしょうか。
首里では着物の中に籠のようなものをいれて抱いて寝た(竹夫人)らしいです。
竹夫人で検索するとちゃんとありました。
暑中,涼をとるために抱いて寝る円筒状の籠(かご)をいう。長さは150cm程度で,本来は竹編みだがトウなども使用。抱籠,添寝籠とも。中国では古くから用いられ,宋代に俗に〈竹夫人〉と呼ばれた。 http://kotobank.jp/word/%E7%AB%B9%E5%A4%AB%E4%BA%BA首里では身分上裸になることが許されなかったので竹夫人が使われていたらしいですが中国由来だったんですね。沖縄らしい話です。
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