船越義彰さんの「なはわらべ行状記」から。
上之蔵通りをおりると右手は、辻の「前の毛」につづく道がひらけ角に交番所があった。そしてなおも正面に突き進むと、つきあたりが新星堂書店。新星堂から右と左に道がひらける。右に行くと、本願寺の前と呼ばれる真教寺の前に道が続き、左手にゆくと三角屋(そば屋)につきあたり、それを境に道がふたつにわかれていた。右手が旭館につづく道、左が石門の商店街への道であった。
石門通りで思い出すのはチクオンキ屋だった。新星堂の右手、真教寺へ向かう道の右側は高台になっており、そこには石屋とよばれているコンクリート建ての新天地(珊瑚座)がそびえていた。(略)
夏-陽がおちて夕風がここちよい時刻になると、那覇四町のおとしよりが、この石門一帯に集まった。チクオンキ屋の周辺の店のぬれ縁はもちろん、道の脇には空き箱を利用して、チクオンキの妙なるしらべのなるのをいまやおそしと待ちかまえていた。なかには下駄を揃えてその上に尻をおろしている方もおられた。なにしろ、チクオンキを持っている家庭は少なかった。だから、石門通りのチクオンキ屋さん、自声堂が一般市民に音楽を提供したのである。
(略)
芝居で歌われ流行歌となっている新しい歌や古典の曲、あるいは組踊や泊阿嘉、奥山の牡丹などの歌劇。そうかとおもうと大和の歌謡曲(そのころは流行歌といった)も流れた。
なはわらべ行状記 p62まず上之蔵通り。

そして引用した部分のあたり。

上之蔵通りのおしまいの辺りは那覇民俗地図では広く描かれており、図でオレンジで示した場所にはクバチカサ、交番、新天地劇場(珊瑚座)があります。オレンジの箇所から海側(図の左)へ行くと西新町に入り真教寺、図の左上は辻です。
上之蔵通り図の出典はは「琉球の都市と村落/昭和初期の久米とその周辺の景観推定図」ですが、クローズアップした部分は那覇民俗地図を参照しています。ここでもわずかに道筋の違いがあって描きにくいのですが大きな差はありません。
図で青く示している左下の箇所は那覇民俗地図では海になっています。西新町の三重城は近辺は最初島のような形で埋め立てられ橋で繋がっていました。それが後年間を埋め立てられ地続きになります。参照した図が想定した時期の違いによるものだと思いますが道筋は久米の景観推定図、旧跡は那覇民俗地図、海は前者の道筋をもとに那覇民俗地図にある海の位置を
おおまかに描いたものです。
正確さはだいたい程度でしかないことを了解ください。
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