明治・大正に出現した「新しい女」「モダンガール(モガ)」についての論文があります。
1920∼30年代沖縄における モダンガール という問い
http://www.igs.ocha.ac.jp/igs2/igs/IGS_publication/journal/9/journal09001.pdfこのブログでは内容については扱いませんが興味深いとこを抜き出してみたいと思います。写真は上記pdfから。
伊波普猷と「新しい女たち」。沖縄組合教会設立(1916/大正5年)の頃。前列左より永田八重子、真栄田冬子(伊波冬子)、比嘉初子(富原初子)、永田美津子、永田文子。後列左より知念芳子(金城芳子)、伊波普猷、比嘉静観、伊波普成(月城)、照屋寛範。pdf中から。
山形屋は華々しい舞台でもあったようです。
1930年はまた、山形屋が大門前通りに新しい百貨店スタイルの店を出し、20人の「デパートガール」を募集した年でもある。募集の条件は「容姿端麗、頭脳明晰」で、このとき130人が応募し、最終的にはすべて高等女学校を出た20名が採用された。大久保、木口両者ともに医者の子女です。
この大久保の父は
若狭病院で引用した証言の中の「大久保医院」だと思われます。
大久保M子と木口T子の家族は、もともと大和出身だが那覇に定住している。大久保の父は徳島出身の医者で那覇には1896(明治29)年に来た。クリスチャンである。木口の父は、鹿児島出身で、やはり医者であり、1885(明治18)年に那覇に定住した。西町の医師の子女ですね。
田中T子さんは芳紀二十歳*西本町の医師田中音吉氏の長女で昭和七年春県立二高女を卒業され、同年大阪市岡高女専攻科に一年学ばれ、和裁の方を専攻されました。1930年に西町に美容院があったと。
新垣美登子は遊学中の東京で小説家の池宮城積宝と出会い結婚した。しかし積宝との共同生活は短く、新垣はひとり那覇に戻って県庁に勤務しつつ子育てをした。その後、再度の妊娠がわかると、新垣は美容師として自活の道を確保するため、1928年に東京のルイズ美容専門学校で学び、1930年に那覇・西本町で、伊波が勉強会を開いていた家に「うるま美粧院」を開業した。
那覇でおそらくもっとも早くに開いた美容院として、新垣の店は評判を呼び、当時まだめずらしかったパーマネントなど、ファッションをリードした。池宮城積宝は
東寿寺(堂小)で紹介した
奥間巡査の作者です。
伊波普猷らが設立した沖縄組合教会には県立高女の一群の若い女性たちが集った。そのうち、のちに沖縄の「新しい女」として知られるようになったのが、以下の5名でる。
富原初子(1888-1974)明治21年生まれ
真栄田冬子(1897-1975)明治30年生まれ
玉城オト(1897-1993)明治30年生まれ
金城芳子(1901-1991)明治34年生まれ
新垣美登子(1901-1996)明治34年生まれ若狭病院で引用した島袋さんは那覇下泉の士族の家庭に明治36年(1903)に産まれていますが高等教育など望むべくも無い状況だったようです。
モダンガールの出現は那覇に外来文化と消費社会が定着し始めたのと同じ頃だと思います。そして一高女、二高女に進むことができた彼女達が明らかなアッパークラスであったことは確かです。
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