久米村では正月はどうやっていたのでしょうか。
大晦日のうちに掃き清め、仏壇前と火の神前を飾り付ける。
明け方に来る若木売りの声に起こされる(若木は縁起物)。
アチホー(恵方)の井戸から汲んできて仏壇と火の神にお供えする。
子供は早く起こされて若水で顔を洗い、着替えて仏壇を拝み、両親に新年のあいさつを述べた。
まず宗家、親戚の高齢者から年始廻りをする。
二日目にはハチウクシー(仕事始め)、子供は書き初めをして仏壇に供える。
三日目には「ミッカ ノ シュク」(三日の節供)で夕食の膳を仏壇に供える。
四日の晩には火の神が天からお戻りになる日なので香炉のある場所には新しい札と聯を張り出してお迎えする。
七日目は「ナンカ ノ シュク」で七草雑炊を仏壇に供える。
出典:那覇市史 資料編第2巻中の7 p109、110(省略編集)七日目まで書きましたががこのあと毎日ではないけども二十日の「ハチカ ソーグヮチ」まで行事があります(トゥシビーウィエー、ショウニンウィエー、アトゥシビー、ハリヤクとイリヤク、十五日、十六日のお墓参り)。
ほかには「ウビナリー(水撫り)」というのがあり、女性は吉日をえらんで
ユーチヌサチにお参りしたようです。
では大晦日はどうか。
トゥシ ヌ ユール(歳の夜=大晦日)
赤飯に豚肉のお汁、酢の和え物、ヒルヌファー(大蒜の葉)を夕食、仏壇にも供える。
ヒルヌファーは添え物で食べない。
床につく前にトゥシトゥイクニブ(年を取る九年母)といってシークヮーサー(クガニー)を家財道具一式に一滴ずつ感謝の気持ちを込めておいてやる。これは年を取らすという意味。
夜間トイレに行くのはタブーとされどうしてもという場合にはヒルヌファーを持参した。
またトゥシジリ(歳末の決算)もこの夜だった。
出典:那覇市史 資料編第2巻中の7 p126(省略編集)那覇市史から抜き出しましたが古老の証言だと思われます。お年玉に一銭から五十銭(かなり多め)をあげたという話もあります。
明治期に近い久米村は衰退が激しい家もあり行事がすべて行われていたわけでもないように思いますが貴重な証言であることには間違いありません。また町方、町百姓、地方の百姓、首里等々すべて違う風習があったと思います。
資料編にはこのあたりも詳しく説明されていますので興味のある方にはご一読をお勧めします。
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