那覇区全図(大4)と昭和5年くらい(?)の
那覇地図を並べてグダグダと。大正は那覇区、昭和は那覇市になっています。
那覇区全図から那覇市地図で変化があった場所、那覇市地図ではわかりにくかった箇所を取り上げてみます。
1は外人墓地周辺で、台ノ瀬伝染病院(避病院)と現在給油所になっているハーリーヤ(爬龍船倉庫)です。二つとも昭和になっても変わらなかったはずですが、川に突き出すようにあった地形や病院そばの入り江が那覇区地図ではわかりやすいです。

2は屠殺場と家畜市場の位置がはっきり書かれています。家畜は地方から舟で運ばれたようです。
3は御成橋を中心とした一帯ですが大正4年当時は「女子技芸学校」があります。この学校は後年の二高女ですが大正10年に久米の松尾山に移転します。
参考:
二高女 - Wikipedia、
グダグダ(β) 松山周辺の官舎群

那覇区地図には県庁は東町の在藩奉行所跡にあり今の県庁一帯には図書館だけが見えます。御成橋は位置が違うように見えますが時期的にどうだったのかはまだ調べていません。御成橋は大正10年に皇太子が来たことにちなんでいます。
関連:
漢那憲和 - Wikipedia(御召艦香取艦長)
4の旭町一帯の図ではまだ旭町と東町5丁目の埋立がされていません。左上に県庁が見えます。
5の監獄は那覇市地図では垣花にありますが大正12年に楚辺へ移転しています。
また奥武山と御物城跡(
風月楼)の間の形が違うようです。埋立途中なのでしょうか。
大正4年と昭和5年の那覇で大きく違うのは県庁の位置
と新県道でしょうか。県庁の移転に伴って周辺に店などができたそうです。
参考:
グダグダ(β) 砂川惠姿(大黒屋) (戦前県庁近くで飲食業)。
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