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安里大通り(52年)

沖縄主要地主要商工年鑑(52年)から安里大通り。現在は大道大通りと呼ばれているようです。
左図は第四十二・四十三図を元に作成、右図はその範囲です。

店舗名。
1は図の左(安里交差点)から右(首里坂下)方向へ。
大田商店、みや○食堂、石川商店、道をこえて友寄タタミ店、川村旅館、道をこえて長田屋、豊平楽器店、琉球復興資材倉庫栄町営業所、道をこえて大湾洋服店、平敷自転車店、伊佐商店、真栄城商店、前川商店、道をこえてしらゆり美容院、東洋商事株式会社、吉浜木工所、寿アイスケーキ、木下醤油
2も同じく首里方向へ。
角に安里派出所、沖縄水道電気工業株式会社、安里貿易商会、城間茶舗、道をこえてダイヤモンド鉱泉所、丸興製材所、長嶺塗装社、大黒屋菓子支店、道を入って奥にゴールド運輸株式会社(e)
3は表通りから入って左側から。
福助湯、双葉旅館、星練炭株式会社、丸京綿花加工所。右側は張水工業所、道を曲がってセナハ洗染所(d)
そのほか栄町内は日の丸旅館(a)、簡易宿金鶴(b)、みやぎ旅館(c)があります。

豊平楽器店は同じ場所ですね。
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ひめゆり通り(52年)

左は沖縄主要地主要商工年鑑(52年)でのひめゆり通りの安里交差点付近(第三十八図)、右はその範囲を描いた図。左図は上下(南北)反転してますのでご注意。

まず1の区間。
沖縄写真館(角)、大洋工業所ブロック工場、謝花酒造工場、那覇瓦興行株式会社、前田木材、玉城商店、姫百合工業株式会社、喜友名時計店、興南商会
2は左側から。
照屋自転車商会(角)、朝日旅館、、脇道を入って日之丸旅館、道をこえて盛光堂書店、小浜楽器店
安里交差点にもどって大きな区画はすみよし旅館、その隣りは沖縄工務社

すみよし旅館の位置に関して第三十九図(52年版)から。

これは姫百合通りと平行する沖縄劇場通りですが、図の右上の三軒あるところは図の左からよしや旅館、すみよし旅館、沖縄工務社となっています。
この三軒はひめゆり通りから大道小学校向けへ折れてすぐにあったんではないかと思います。

沖縄劇場通り(50年代初期)

左図は沖縄主要地・主要商工年鑑(51年)の沖縄劇場通りで第二十二図表、右はその範囲の69年(ゼンリン地図による)

現在の安里駅がある箇所は69年では店が立ち並んでいます。どういうことかというと、もともと330号線は鉄道路で道路ではなく、沖縄劇場通りは安里橋からくる普通の道でした。戦後鉄道は再建されず道路になりましたが、安里交差点は変形五叉路のような形をしていたわけです。69年時点ではまだこの名残があります。

店舗名。Aは沖縄劇場、Bは沖縄バスです。
1の区間は安里交差点方向から。仲本フトン店、ピースアイスケーキ、高良商店、金城楽器店
続いて2
たからや旅館、新垣木工所、大山木工所、福島商店、旅館安里館、三楽、丸高旅館、●洋服店(●は○に清)、宮城自転車店、好乃旅館、●材木店(●は○に裕)、清好旅館、料亭美杉、料亭だるま亭、大進商会
3の区間。
石川旅館、山城商店、盛光堂書店、小浜楽器店
つづいて沖縄劇場脇にタカラケーキ、沖縄バス脇に消防車庫、琉球日報社(角)。[赤で表示]
4の区間。
料亭左馬、国吉易宿、安里橋そばの脇道に入ったところで山月旅館

このほか「沖縄劇場通り食堂案内」というのが分けられて書かれています。
1と2のある330号線側は、大入食堂、つるかめ食堂、丸八食堂、高千穂食堂、待合所食堂、日の出食堂、バス前食堂、ゆたかや食堂
反対側は丸久食堂、食堂さだえ、みはる食堂、菊の家食堂となっています。

続いて同じ範囲の52年版は店舗名のみ(第三十九、四十図)。
330号側。仲本フトン店、丸共綿花加工所、●丸玉製パン直売店、高良商店、出光工業所、さかえ食堂、三日月食堂、丸八食堂、たからや旅館、かつみ旅館、大安食堂、佐川建設事務所、丸高諸間、盛大堂薬舗、●木材商(●は○に裕)、大進商会本店、南燈食堂、だるま亭、美杉亭
反対側。小浜楽器店、いろは旅館(角)、翁長商会、沖縄劇場、さだえ食堂、いなみね美粧院、仲本グロリー洋裁店、沖バス本社、太平ホテル、みはる旅館、左馬亭、食堂田吾作、友愛タクシー、国吉簡易宿、栄楽食堂、三杉亭

栄町(52年) 4

沖縄主要地主要商工年鑑(52年)から栄町の十字路角の一帯です。

今回は右図のaの範囲ですが52年版では中の様子があまりわかりません。とりあえず店舗名。
栄町ロータリー角のピンクで示した区画から。角から図の上方向右側はわかふじ亭(角)、ロータリー理髪館、大丸旅館 百貨店、栄謄写堂(角)、おなじく左側は有楽亭(角)、玉の家亭、初音旅館(角)
栄町ロータリーから330号方向へ。田名商店(角)、美松食堂、道をこえて味見食堂、三笠タクシー、食堂一休

図の右側部分はゼンリン地図69年版での店舗を書きいれてあります。右側の緑色の箇所は「AL美容院(AJ美容院?)」で向い側に大丸ストアーがあります。下側の赤い区画には「旅館叶屋」と「栄亭」があり、前に取り上げた52年のこの区画での店舗名と変わりません。
青い箇所はひめゆり会館です。

51年版にも栄町はあるのですが、若干わかりやすく書かれています。51年版での図の区画割りを図(左)にしてみました。色の分け方は右図に準じています。

aの範囲にある店舗名で52年版にない店舗名をあげておきます。今回は市場内のみで、安里大通り沿いの店舗は別の機会に。
まつよし亭、若葉食堂、なみよし亭、白百合食堂、みやぎ旅館、花咲食堂?、まるや食堂、よぎ旅館

栄町(52年) 3

沖縄主要地主要商工年鑑(52年)の第四十五図を参考にしますが、この区画は少しめんどくさくて図と現在の区画が完全に対応していません。
今回の範囲は右図でのbの区域です。

とりあえず店舗名から。
玉家亭(a)、一楽亭(b)、よかろう亭(c)、球陽工業所(d)、再起屋(e)。
十八番亭(f)、湧川商会(g)、AJ美粧院(h|オレンジ)、鳴海旅館(i)、水産会館(j)、名城商店(k)。

図の左側のオレンジ色の箇所はゼンリン69年版ではAL美容院となっていますがこれは誤植ではないかと思われます(地図内の文字は手書きですけども)。

この区画の南側は前に取り上げたんですが(参考)栄町ロータリーの角は浜千鳥旅館になっています。めんどくさいのはそのとき参考にしたのは四十四図、今回の範囲は四十五図で、連続する一帯にも関わらず縮尺が違ったり道が省略されていたりするんですよ...
今回の四十五図では栄町ロータリーを挟んで湧川商会と浜千鳥旅館は向かい合っており、十八番亭と湧川商会の間には道はありません。なんですが四十四図では間に道があることになっています。図を見て考えてみると湧川・十八番間に細い路地があったんだろうなと推測します。

このブロックから一つ北側の鳴海旅館があるブロックはおそらく当時と変わっていません。
そのもう一つ北側のブロックは沖縄主要地主要商工年鑑では一つのブロックになっていますが、ゼンリン地図69年版では2つにわかれていて現在と同じ区画です。おそらくこのブロックの北側の道は後年造られたものではないかと思われます。このあたりを安里・大道間の境界線()が走っています。
今回の推測はかなり不確かな部分が多くて参考にするにはかなり怪しいかと思います...

【追記】沖縄主要地主要商工年鑑の51年版での区画を描いてみます。

色分けは右図に準じていて、51年頃相当の左図も最初にあげた52年版と区画は変わらないことがわかります。また店舗名などもあまり変化がありません。

栄町(52年) 2

栄町の大道校通り沿いの婦人連合会会館 (婦連会館)のある一角。沖縄主要地主要商工年鑑(52年)の第四十四図を参考にします。

図の下、330号線側から真和志中・大道小に向かう道は沖縄主要地主要商工年鑑では「大道校通」となっています。
1は大道校通り側から。色のついた箇所が店舗名表記のある箇所です。
濃い色で書いてあるのが「婦連会館」、その後の右側が沖縄教育会館、左側が南西印刷所
2も同じく。
三和木工、右側後ろに宮平舞踊、八重山連絡。ブロックを移って区事務所、ガナハ商会
3も同じ。
●木工所(●は○に盛)、ブロックを移って右側がサカエクラブ、まき○旅館、左側が食堂銀座
4も同じ。
右側にナゴ旅館、共○舎洗濯屋、左側に金城商店、新○旅館。ブロックを移って左側に真栄城商店、ことぶき亭、浜千鳥旅館

栄町(52年) 1

1952年の栄町の店舗名。沖縄主要地主要商工年鑑(52年)の第四十四、四十五図と第三十九図を参考にします。

わかりやすくするために左図のように区分します。右は戦前の栄町一帯でBが一高女・師女です。
今回は上左図のcの一帯。1949年8月(参考)から沖縄バスがあり、330号線から大道小学校(参考)へ向かう道は大道校通と書かれています。

1は大道校通からロータリー方向へ。
ブロック右側は京屋食堂(角)、丸吉旅館、栄町湯(角)、ブロック左側は空白(角)、おきな亭、よつ竹亭(角)
2も同じく。
ブロック右側は中外商事会社(角)、空白、叶屋旅館(角)、ブロック左側はみよし旅館(角)、みつわ亭、栄亭(角)
3も同じく。
春芳亭(角)、よしの亭、ふじや旅館、あたりや旅館、えくぼ亭、ともえ亭、松島亭、高千代亭(角)
4はロータリーから330号線向け。
角に高千代亭があり、はるえ食堂、●カマボコ屋(●は○に玉)、くめ旅館、ミスさかえ、黒猫食堂、我謝理髪館、美術天柳

ここまでは第四十四、四十五図から。安里交差点から沖縄バスに向う通りは沖縄劇場通りで第三十九図になっています。そこでのc
安里交差点側からさだえ食堂(角)、いなみね美粧院、仲本グロリー洋裁店、沖バス本社、太平ホテル(角)

沖縄バス横の大平ホテルの敷地がどんな形をしていたのかわかりませんが、これまでの図を参考にすると沖縄劇場通りに面していてc角付近まであったことになります。妙に細長いですが...

栄町前史 2

栄町前史 1の続きです。戦前の環境について。

この図は真和志民俗地図を模写したもので、ピンクの箇所が住宅になります。右側に松川、左側に安里の2つの部落があります。
那覇市史からそれぞれの部落について抜き出します。

松川
昔真和志平等松川邑。また茶湯崎とも唱えられていたが後真和志間切に編入されて今日に至っている。松川は南西に広い耕地を控えてはいたが、純農村というより農労村とでもいうべき生活内容で2、3富裕な家のほかは貧しい部落だった。
安里
泊の東に隣接していることから昔“脇泊”とも唱えられていて八幡宮、神徳寺、オキナワの嶽など名所旧跡もあり名実共に北の中心的なところであったが、明治43年に安里小学校が設立されてからいよいよその中心的色彩が濃くなった。大正11年嘉手納線が開通して安里駅がででき、交通の一拠点となった。ここも純農地域ではなく牛乳屋数軒あり崇元寺通りにはそば屋、理髪屋、雑貨商などが軒を並べていてちょっとした町の恰好をなしていた。
大道
安里から分かれて区長制設置をした当時(大正9年)はわずか60戸ばかりの民家が点在しているに過ぎなかったが、面積は広く、大道松原と上大道、下大道が主体となっている。住民は首里その他からの寄留民で構成され松川同様半農半労であった。大正3年首里那覇間に電車が開通したり、一高女と女子師範が新設されるに従って人口も増加し半農半労的な営みもできつつあった。
那覇市史資料編第二巻中の7 p38、39(抜粋と編集)


大道の原名。「大道松原」はググってください。
グダグダ(β) 字大道の原名(北) (上大道、下大道)
グダグダ(β) 字大道の原名(南)

那覇市史を参考にすると、古い部落の安里と松川の中間点にあった寄留民主体の新しい部落が学校や駅の設置により大正ごろからだんだん大きくなっていったという流れのようです。
松川部落近くには製糸関連の施設ができ、国際通りの安里周辺は養蚕のための桑畑がありました。

参考:グダグダ(β) 養蚕関係の施設
参考:グダグダ(β) 安里の桑畑

戦前の大道は首里那覇間の道路沿いにだけ部落があり、南側には集落はありません(参照:真和志民俗地図)。拝所や旧跡がないのもこれを裏付けるかと思います。
この住居のない一帯は戦後に地方の人間が集中し爆発的に人口が増加します。

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