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栄町前史 2

栄町前史 1の続きです。戦前の環境について。

この図は真和志民俗地図を模写したもので、ピンクの箇所が住宅になります。右側に松川、左側に安里の2つの部落があります。
那覇市史からそれぞれの部落について抜き出します。

松川
昔真和志平等松川邑。また茶湯崎とも唱えられていたが後真和志間切に編入されて今日に至っている。松川は南西に広い耕地を控えてはいたが、純農村というより農労村とでもいうべき生活内容で2、3富裕な家のほかは貧しい部落だった。
安里
泊の東に隣接していることから昔“脇泊”とも唱えられていて八幡宮、神徳寺、オキナワの嶽など名所旧跡もあり名実共に北の中心的なところであったが、明治43年に安里小学校が設立されてからいよいよその中心的色彩が濃くなった。大正11年嘉手納線が開通して安里駅がででき、交通の一拠点となった。ここも純農地域ではなく牛乳屋数軒あり崇元寺通りにはそば屋、理髪屋、雑貨商などが軒を並べていてちょっとした町の恰好をなしていた。
大道
安里から分かれて区長制設置をした当時(大正9年)はわずか60戸ばかりの民家が点在しているに過ぎなかったが、面積は広く、大道松原と上大道、下大道が主体となっている。住民は首里その他からの寄留民で構成され松川同様半農半労であった。大正3年首里那覇間に電車が開通したり、一高女と女子師範が新設されるに従って人口も増加し半農半労的な営みもできつつあった。
那覇市史資料編第二巻中の7 p38、39(抜粋と編集)


大道の原名。「大道松原」はググってください。
グダグダ(β) 字大道の原名(北) (上大道、下大道)
グダグダ(β) 字大道の原名(南)

那覇市史を参考にすると、古い部落の安里と松川の中間点にあった寄留民主体の新しい部落が学校や駅の設置により大正ごろからだんだん大きくなっていったという流れのようです。
松川部落近くには製糸関連の施設ができ、国際通りの安里周辺は養蚕のための桑畑がありました。

参考:グダグダ(β) 養蚕関係の施設
参考:グダグダ(β) 安里の桑畑

戦前の大道は首里那覇間の道路沿いにだけ部落があり、南側には集落はありません(参照:真和志民俗地図)。拝所や旧跡がないのもこれを裏付けるかと思います。
この住居のない一帯は戦後に地方の人間が集中し爆発的に人口が増加します。
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