
戦後ヤミ市が神里原周辺に発生し、その後国際通り周辺に繁華街が移行します。
参考:
経済の背景(2)>那覇市の壷屋から神里原の問屋街、平和通りの市場街も形成され(略)この頃小規模ながらも神里原に現在の山形屋、リウボウなどが開店をみている。
>1955年にはバスターミナルが統合建設され(略)幹線は牧志を中心とする国際通りに移転し(略)商業の中心地も国際通りに移っていった。
>1954年にはリウボウが、1955年には山形屋が現在の場所に移転とはいえ2010年現在リウボウは位置を変え、山形屋は無くなってしまいましたからね...
大洋劇場周辺では真和志民俗地図、ゼンリン地図(1969年)、昭和26年の那覇図を参考にして大洋劇場の位置を示しました。大洋劇場はわりと後まで残っていたのでわかりやすかったというのもあります。
神里原に存在したりうぼう(マルキンデパート)と山形屋の位置を表示しているのは昭和26年の「那覇市地図」です。
この那覇市地図は手書きの概略図のようなものであまり正確ではありませんが、大洋劇場の横にマルキンデパート(二階にりうぼう)、マルキンデパートの道向かいに山形屋があったというのはかろうじてわかります。ということで最初に示した図もその程度だということを了解ください。
りうぼうは琉球貿易庁の関係者により唯一貿易を認められた「琉球貿易商事株式会社」として設立されましたが、貿易規制解除も「りうぼう」として事業を継続させました。神里原でのスタート時はマルキンデパートの二階にあったようです。
【追記】
宮里[辰彦]は崇元寺の社屋を売り、丸金デパート二階に入る。
1952年11月20日丸金デパート二階に開店。2年後(1954)に松尾へ。
国際通り物語PR