
過去の那覇市史ニュースから辻原近辺の硝子工場について触れている文があったので引用します。
那覇民俗地図だと辻原墓地の周辺に硝子工場が二箇所あってどちらが前田硝子工場なのかはわかりませんが、バクチャヤー近辺の風景や工場の暮らしがわかります。
文中の真教寺や三杉楼は下側の硝子工場の更に下辺りになります。
昔あった前田硝子工場
大正時代6〜70年前にも、那覇市内もバクチャヤー海岸に、細々と硝子製品を造っていた小さい工場があった。うろ覚えではあるが、真教寺横の道→三杉楼裏側の崖下道を北進すると、北東方に波の上宮が真向に見える、荒涼たる海岸に出る。そこで左折して暫く行くと、アダンやユウナの木立に囲まれて前田家の硝子工場があった。(略)住居は長屋風の殺風景なものだったが、裏の工場は広くて煉瓦積みの古い大きなカマドがあったように思う。(略)ランプのホヤ・笠・石油壷またはラムネ瓶・風鈴などにしていた。
大正6年頃から末年までに2、3回。昭和になってからの訪問は記憶に無いから何年頃に前田家が移転したかはわからぬが、昭和6年頃にあの辺を訪ねたら、昔の家屋は無く、草茫々たる中に煉瓦塊が散らかっているだけだった。
それにしても念のためと、東恩納先生の南方風土記にあたったら、「潮の崎:シューヌサチ 西新町真教寺の裏手から今の硝子工場付近にかけては一面の砂汀をなし」云々と、記憶に残る前田工場の前身らしい硝子工場についての記述。同先生の「今の」は、明治38、39年頃になるだろうから工場はその前に既に建てられていたはず。
(※省略と編集をしています)殺風景な海岸線のそばで長屋に住んで硝子製品造ってたわけですね。
省略した部分で「戦後の硝子工芸とはつながりがなさそうだ」と述べられています。昭和6年(1931)には無くなっていた硝子工場と戦後しばらくしてからの硝子製品作りに人のつながりがあるのかどうかは琉球ガラスの歴史を調べればもしかしたらでてくるのかもしれません。
ちなみに寄宮には硝子工場通りという通りがあり、その名の通り工場があって琉球ガラス製品を作っていました。薄暗くなったころに覗いて見ると赤い炎が見えたもんです。
追記(2011.07.18)
昭和12年の人名録には硝子工場で前田という名前があります。
那覇市西新町3ノ24 電69
硝子工場 前田龍五郎
日報の沖縄人名録 昭和12年版関連:
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