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店舗経営者と工業系事業所従業員の出身地(56年)

那覇市史の戦後新聞資料集成2から。
真和志市合併前というのにご注意。

那覇の総店舗数の3割余が1区に集中し、6区、5区、10区などがこれに次いでいる。各区ともに年々増加しているが、7区、8区、11区、松尾区などは逆に減っている。首里は323軒で全体の6%、小禄も332軒で首里とだいたい同じ。
店舗営業主5127人のうち那覇市出身者は3063人で総数の59%、あとは他市町村出身者であるが一番多いのが本部町の226人、100人以上が真和志市、糸満町、今帰仁、国頭両村、宮古八重山、日本本土となっている。
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工場数は逐年増加している。55年は493軒で54年の319軒より54%の増加。食料品工業が最も多く総数の24%の120軒、その他修理業116軒、製材木製品工業65軒が目立つ。鉄工、金属製品は34軒、建築工業32軒、印刷31軒、特産品17軒、従業員総数は5979人で、うち56%(3370)は建設工業が占めている。
(中略)
事業所の分布状況は5区が67軒で13.6%、旧首里が61軒で12%、6区が43軒で8.7%で大きいところ。工業従業者は那覇出身が317人、10人以上が糸満町、本部町、国頭村、宮古、日本本土となっている。
沖縄タイムス 1956年7月30日 (抜粋と編集)


黒が「那覇の総店舗数」での増加傾向の区、赤が減少傾向の区です。5区(青)、6区(緑)は事業所が集中しているところです。

 ※戦後の那覇の区を参考にして作成しましたが、範囲などの見直しが必要なところがありますのでその旨了解いただきたく
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56年の通り会

真和志市合併直前の那覇の通り会名です。
那覇市史の戦後新聞資料集成2から。

那覇には18の通り会がつくられて商店街の発展に一役かっているが、各通り会の親睦と連絡を密にし健全な発展を図るためその上に通り会連合会(会長仲井真元楷氏)の組織もできている。各通り会の名と会長は次の通り(敬称略)
神里原通り会ー平良真次郎、平和商店街ー具志幸得、樋川通り会ー喜久山朝重、開南通り会ー黒湖[ママ]武秀、桜通り会ー山城善光、ひめゆり通り会ー平良光男、市場中通り会ー宜保為楷、新生通り会ー川満実祥、銀座通り会ー船越清輝、病院通り会ー大城鎌吉、新栄通り会ー仲井真元かい、千歳通り会ー藤本長蔵、旭通り会ー嘉手苅仁盛
以上の外最近できたばかりで連合会未加入の通り会がある。
国際通り会ー松川国春、国際中央通り会ー中山興忠、国際本通り会ー宮里辰彦、波之上通り会ー砂川恵姿、若松通り会ー宮城長四郎
沖縄タイムス 1956年7月29日 (抜粋と編集)


「銀座通り会」はわからないですね。「桜通り会」は山城善光さんなので桜坂ですが、同紙7月30日付記事中では「特に桜坂一帯のバー、小料理店の勃興ぶりはめざましい」とあるようにどっちの呼称もありのようです。
新生通り(会)は沖映通りにあった新生橋からで、パラダイス通りと呼ばれている通りです。

56年の市場

沖縄タイムス連載の「新郷土地図」から抜粋します(引用元は那覇市史の戦後新聞資料集成2)。

3ヶ所に増設/公設市場“闇市”から発展
戦後那覇の入口が増加につれ、上マチ小(現在の開南交番付近)と壺屋マチ小が自然に発祥し、当初は本土引揚者が主になって、中古品、戦果品(軍窃盗)が売買され、闇市場とも呼ばれていた。
48年4月に壺屋マチ小が市営に移され、仮りに造られた幕舎市場は50年12月に165坪の食肉市場を改築、51年4月に103坪の雑貨、51年8月に138坪の衣料市場を改築、現在は大工1人が常時補修にあたっている。
市場の総面積は1120坪で上岡作太郎氏(933坪)上原マスヨさん(117坪)高良一氏(70坪)の私有地を借り、割当土地賃貸料に準じて、借地料を月8万2000円を払っている。しかし市営に移されてから1000坪近くの土地を地主に返している。
市場使用料は月極と臨時に区別されて、月刊約58万7000円を上げている。月極とは固定した売り場を(坪当たり一日80円)貸し1人当り300ー800円を徴収している。業種別の調停額(6月分)は
雑貨商|193名|69117円
衣料商|258名|90564円
食料商| 37名|13442円
米穀商| 51名|27924円
精肉商|115名|69948円
鮮魚商| 22名| 8235円
鰹節商| 20名| 4158円
野菜商| 16名| 4279円
となっている。徴収率は期間のずれはあるが100%となっている。臨時は定まった売り場はなく、主に軒下を利用しバーキ1つで商売しているくちでその都度1日3円を徴収、1日平均3000円で収入は月極部より上回っている。
現在の市場は衛生面からもいろいろと使用者、市民から不満をかっているが、市当局はしばらくその改善を見送り、泊、崇元寺、若狭町などの公設市場を計画、今年度予算に計上してある。
沖縄タイムス 1956年7月30日(抜粋と編集)


衣料と雑貨が多いですね。

銃での狩猟

昭和2年の狩猟期解禁の記事です。

ズドンと一発・・・/銃声の響き/狩猟期解禁されて天狗連の胸高鳴る
去る15日から狩猟期解禁となつた狩猟免状の下附願は今の処県下各署を通じて少い様○○るが天狗連はそろそろ準備にとりかかつて居る猟犬の詮索やら銃の手入やらに余念がない、ズドンと一発野に山に猟を追ふまこと男性的な痛快味がある爽やかな陽を気持ちよく浴び○そよ○吹く涼風に汗ばんだ顔を撫でられつつ銃声を響かせて獲物を探す・・・ 大小天狗連の胸は手具臑ひいて胸を高鳴らせて居るであらう、数年来の不景気で金儲けにする狩猟家は逐年減少しつつあるが其の代り中産以上の者で趣味的にやる狩猟家は多くなり休日や日曜日などを利用して大方郡部の山野に出掛ける様である。
沖縄朝日新聞 1927(昭和2)年9月20日 (抜粋と編集)


狩猟についてはよくわからないのですが、記事では「金儲けにする狩猟家」とありますので換金目的で猟をしている人もいたのでしょう。
年代が離れているのであまり参考にはなりませんが明治25年の猟銃保有数は423梃(丁?)あります。

女学生の風紀

大正9年の新聞記事を抜粋します。
自分は風紀云々よりは大正時代のデートスポット情報として読んでる訳ですが(笑)。

次第に退廃し行く女学生の風紀/待合せる女学生丘小/学校許りの罪に非ず
(前略)
而し女生徒は退散後の帰途牧志町の美栄橋附近七ヶ墓の手前にある土手で唱歌を合唱しながら男生徒の帰宅するのを待合はせる。男生徒も若し退散時間の早い場合には唱歌を合唱して女生徒の帰宅するを擁するので誰れ云ふとなく其の場所を「女学生森小」と命名した。斯くして朝の出校時には電車の乗合はせに於て、正午あとの退散時には八幡宮の森蔭や或は崇元寺の境内で落合ふ女学生と男学生の群は其の初め相互に一団となって戯れの文通をするのであるが、何時とはなしに各自相手を選んで別々に文通する事となり、日曜日になると那覇郊外○泊の崎樋川附近若しくは楚辺原共同墓地からか城岳の辺り近くは奥武山公園などに相提携して散歩することとなり夜は夜で区内下泉町付近から三重城公園及び波之上など暗くて涼しい所を集合の場所に選ぶのである。其れのみならず冬は暖かい友人の下宿屋に落合つて互に寝転びながら近頃流行り出した「恋の島」とか「夜の海原」などの唄を合唱して謡う程に大胆となり淫卑となる。けれど○以上の場所及び場合の外に男女学生の風○を○乱しおるに最も適当な機会を提供しつつある場所があるのを忘れてはならぬ。それは活動写真館である。彼の薄暗い観客席を重苦るしい人混のなかで若い男女学生が如何なる微妙な環状に捉えられながら映写される写真を外に秘密な快楽を貪りつつあるかは学校当事者は勿論生徒の父兄も推察せねばならぬ。(後略)
沖縄日日新聞 1920(大正9)年9月8日 (抜粋と編集)


大正デモクラシーの時代的なものだったんでしょうね。

電球封じ工募集広告

募集
封じ工 2、3名 経験者
日給 1円以上

右希望者ハ至急御来談アリ渡シ

懐中電燈用 スポット球 オパル球 自動車球 各種電球 輸出販売

那覇市松下町2ノ54(司令部下)
合資会社 沖縄豆電球製作所
電話724番
日刊沖縄新聞 1937(昭和12)年3月20日 (抜粋と編集)


松下町の軍司令部近くにある電球製作会社の募集広告です。
「封じ工」というのは電球の組み立てでもしてたんでしょうか。

波上病院の広告

大正12年の新聞広告ですが病名を方言名でも書いているのが面白いです。

◎血尿 チーシーバイ
◎乳色尿 シルシーバイ
◎血性乳色尿 チーマンチシルシーバイ
◎疝気 クサフルヤー
◎象皮病 ヒシヤブーター ヤツクワナー
那覇波之上通り 波上病院
琉球新報 1923(大正12)年3月24日


那覇市史(資料編第2巻中の7)に「医療・衛生・保健」(p665)があるのですが象皮病の方言名はありません。
「ヒシヤ」はおそらく「ヒサ」で足のことでしょうから足が腫れあがってること、「ヤツクワナー」はヤックヮンのこと。

http://ryukyu-lang.lib.u-ryukyu.ac.jp/srnh/details.php?ID=SN41170

市場の珍商売 2(53年)

那覇市史の戦後新聞集成2(p57)からで、市場の珍商売 1(53年)の続きです。

両替屋も繁盛 弗や日本円の両替も妙な現象。いつまで経てばなくなるのやら特に最近では日本円との両替商売が当っているという話だ。どこかの植民地的な話ではある。
この寒いのに氷水専門の立売りが居るがどんなに寒い日でも商売になっていますというから驚く。右往左往して渇いたアンマー達がぐっと一息にノドを潤すのだろう、飲み手は殆ど女だと売り手はのべていた。
金のまた貸し 金のまた貸しというのがある。○○斡旋所といったところを仲介に安い利子で借りたのをまた貸し、利ざやをはねるという手、ある斡旋所の話だが入院した夫の費用をこれで十分に稼いでいるという婦人が居る。斡旋所でもう一つ、お客面して描く斡旋所を訪問、それを横取り、看□なきモグリの斡旋業で人の目をかわしているのもいるそうな。
質屋あさり 質屋めぐりの専門も現れているが、これは安物買いでボロい設けをしようという類い、ちょっと頭の良いところでは商品の動きを注視、投売り品を買いあさるという専門家もいるそうだ。
沖縄タイムス 1953年1月25日 (抜粋と引用)

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