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大道の識名酒造

旧番地の入った地図から三原周辺の図を作ってみました。



旧番地の図から何が分かるかというと新しく造った道です。そのほかに造成前の地形を推定したりもできるかと思います。ただし元図での番地が戦前の番地に対応しているか、真和志村時代と共通しているか、などはわかりません。いえるのは那覇の住所表記が変わる前の番地ということだけです。ゆえにところどころ妄想になりますのでご注意。

元図は今もある道が描かれています。しかしその道のうちのいくつかは薄く描かれていて図では茶緑色で描きました。元図で薄く描かれた道が何なのかということですがこれは新しく造られた道だと判断しました。理由は、番地を分断するように通っていたり、T字路を十字路にするようになっていたり、やたらと直線的だったりというところから妄想しました。

表の比較から識名酒造のところ。

識名 謙/大道366番地[--/--][24.識名酒造場/時雨/那覇市字大道]

南部酒造組合での住所は「識名 謙/大道366番地」、酒造組合名簿(62年)での住所は「24.識名酒造場/時雨/那覇市字大道」です。
この「大道366番地」はここになります。


多分間違いはないかと思いますが識名酒造はここにあったのでしょう。近くには大原区がありますが、大原区は戦後の移住てできた場所で戦後比較的早い居住地だったのです。

大原区の発祥については、1946年8月軍政府から今後軍民那覇港を中心とする輸送計画を樹立し、陸運関係は那覇港に近いところに住居を持つように軍の首脳部から命ぜられたので、当時陸運課長であった宮城善正氏は候補地を天久と安謝に求めたがいかんせん飲料水に乏しいので水を頼って現在の地に来た。ここは旧真和志校の後方の岡で、大石毛という丘陵地のしたの原野地であったがブルトーザで切り開いて平地となしここに陸運関係の120戸の人達が住居を持つようになった。真和志市誌 p274
大原区(寄宮)


参考:グダグダ 大石毛
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千寿糕(センジュコウ)

少し前の新聞を見ていたら「千寿糕」復活という記事がありました。なんでも小説で使われているそうです。

困った時の那覇市史資料編(笑)ということで見てみます。

麦粉の衣にあんを入れて焼いたもの
円形の光餅(クンペン)、桃型の李桃餅(リトーペン)、小判型で赤色の汀砂餡(ティーサーアン)は法事に用い、球形で色付けした千寿糕(センジュコウ)・橘焼(タチバナヤチ)は祝儀用である。
那覇市史資料編第二巻中の7、p323


これらは専門家の作る菓子という項目に入っています。製造元の新垣ちんすこうのブログはこちら。

材料、製法ともに「李桃餅(りとうぺん)」と同じ。しかし、中のゴマ餡にはキッパン(オレンジピール)が入っており、お口の中で爽やかな香りが広がっていきます。
千寿糕(せんじゅこう):あらかきちんすこうのぶろぐ

http://arakakikasiten.ti-da.net/e3434603.html


なるほど。李桃餅の説明もwebにありました。

小麦粉とラードをこねた皮の中にゴマあんが入った、見た目を桃に似せた饅頭。ゴマあんには、煎りゴマ、橘餅(ミカンの砂糖漬け)、ピーナツバター、砂糖などが使われている。現在は「ももぐゎーし(桃菓子)」とも呼ばれ法事のお供えとして目にする。
http://www.weblio.jp/content/%E6%9D%8E%E6%A1%83%E9%A4%85


新聞記事から新垣菓子店の記述も抜粋して引用しておきます。

同店を営む新垣家は琉球王国の17代目の王、尚灝から、尚育、尚泰の3代の王に仕えた庖丁人、新垣淑規氏を祖とする。新垣専務の曾祖父にあたる淑規氏は1932(昭和7)年に本家から分かれ、那覇市久米で開業。
今回、淑規氏から直接菓子作りの手ほどきを受けたという菓子職人歴40年の宮城進工場長が千寿糕の再現に腕を振るった。
沖縄タイムス 5/10日付け

当間重民の酒造業

「当間重剛回想録」に当間重民の酒造業について書いてありました。

三男、重民は明治33(1900)年に生まれた。早稲田大学英文科を卒業、沖縄県立一中の教師を希望したが生活の心配がないからとの理由で採用を断られた。そのころ不況で那覇市内の島袋、津波古といった酒造所が倒産した。重民は島袋酒造所を買って酒造業を始めたが、それが成功して、泡盛の年産220石だったのが300石にまで伸びていった。
当間重剛回想録 p24、25


大正7年沖縄県立第一中学校を卒業し、進んで早稲田大学高等師範部英語科に学び、同14年同校を卒業して一年志願で入営し陸軍歩兵科少尉に任官す、満期除隊後は酒造業に従事
グダグダ 当間重民


大正14年に大学卒業した後に1年は陸軍、戻ってから酒造業を営むという経過でしょうか。大正末期からの不況(ソテツ地獄)は深刻なものでした。
倒産したとされている「津波古」は津波古酒造場?

酒造連合会が結成されたのは昭和3年、時の内務部長を初代会長として発足した。大正末から昭和初期にかけては世界的大恐慌で県経済は四苦八苦の状態であった。昭和3、4、5年が業界にとっては一番苦しい時期で、多くの酒造所が倒産のやむなきに至った。
グダグダ 戦前の酒造業界


当間重民に酒造経験はなかったはずですから倒産した酒造所の職人たちを雇用したのでしょう。
関連:グダグダ 津波古酒造場/太平酒造場

旭窯業所 2

古波蔵にあった旭窯業所についての検索結果をまとめておきます。
関連:旭窯業所
関連:坂元栄之丞

熊本県天草の丸尾焼のページ。

金澤武雄は、明治24年(1891)丸尾焼2代久四郎の四男として生まれる。明治4
3年佐賀県立有田工業学校窯業科を卒業後、農商務省工業試験所に勤務し試験研究に従事する。
昭和2年には、沖縄県商工技師に任じられ、内務部勧業課に勤務。昭和4年陶管や泡盛壺を製造する沖縄旭窯業株式会社創設に主任技師として尽力。沖縄時代に浜田庄司と師弟関係にあり、浜田庄司を育てる。
昭和7年(1932)2代久四郎が病没したため、天草に帰り3代目として家業を継ぐことになる。

http://www.maruoyaki.com/0621/history/history_maruo.html


『沖縄大百科事典 上 ア~ク』(沖縄タイムス社、1983年)
 p472 「沖縄工業指導所」の項。伝統産業の振興機関。1927年(昭和2)県庁内発足、1932年初代所長として安谷屋正量が赴任、1944年10・10空襲後終止符を打った、とある。

http://crd.ndl.go.jp/GENERAL/servlet/detail.reference?id=1000085308


昭和2年に設立された「沖縄工業指導所」に金澤武雄が招かれたこと、昭和4年に「沖縄旭窯業株式会社創設に主任技師」としていたことがわかります。
公的機関の技師がただの民間の会社にいくというのは考えにくく、金澤武雄の今までの職歴も公的な機関が主なようですから、旭窯業は何らかの意図を持って設立された会社ではないかと想像します。

昭和4年12月本県陶業の振興を計画し旭窯業株式会社を設立、推されて初代専務取締役に就任
グダグダ 坂元栄之丞


たとえば「本県陶業の振興を計画し」というのが「泡盛の輸出の為の容器生産」なども含んでいたと考えれば行政がからむことも自然だと思われます(妄想ですが)。このへんは県史など確認すればあっさりわかるかもしれません。

荒焼はまったく別の要因でその伝統技法の崩壊の危機に直面したのであった。
それは明治37、8年の日露戦争を前後する頃の景気の到来で、壷屋では実に30余基の荒焼窯が築かれ、その景気は天をつく勢いだったといいつたえられている。製品は主として軍向けに移出された泡盛の容器としての酒甕類で、一窯実に1000個単位で焼いたというから如何に大量に生産されていたかがわかるというものである。このような大量生産がもたらしたものは、いうまでもなく粗製濫造からくる賃の低下であった。(略)県側も、このように衰退傾向が著しくなった壷屋の陶器のみならず、漆器、織物、紅型等の工芸界の状況にかんがみ、昭和二年「沖縄県工業指導所」(初代所長=安谷屋正量)を開設し、技術指導、新製品開発、業界組織の改善、強化、経営の合理化などにのり出したのである。ようやくその成果がみえはじめた頃、沖縄戦に突入し、その活動は中途で停止のやむなきに至った。しかし、その理念は、はからずも戦後復活されたのであった。
近・現代沖縄の焼物(抜粋と編集)

http://www.zyyms.net/yakimonokingendai.htm


引用したサイトの「近・現代沖縄の焼物」は明治に入って変化してゆく焼き物の背景なども含めた記述になっています。粗製濫造のことにも触れていますが、泡盛関係側の記述にも容器の品質(漏れなど)の問題が書かれてあります。
まとまりはありませんが旭窯業検索関連結果まとめということで。

---
余談ですが当間重剛の弟である重国(次男)は「京都府立の陶器学校に入学、その時代に河合寛次郎、濱田庄司などと知合い、沖縄に連れて来ている」と当間重剛回想録にあります。当間重国は明治31(1898)生まれですから大正ごろの話でしょうか。

坂元栄之丞

沖縄県人事録(昭和12)から坂元栄之丞の項目を抜粋して引用します。

坂元栄之丞
旭窯業㈱専務取締役
那覇市天妃町1ノ12
君は明治8年を以て鹿児島市に生る。明治25年叔父と共に来県し宮古郡に於いて開墾事業に従事す。当時概に黒糖一千梃生産し同郡に於ける黒糖製造の先覚と称さる。その後木材商を営みしが明治28年現在の洋品雑貨商を開業し那覇市に定住して今日に及べり。今や市内屈指の老舗として那覇市商店街に重きをなして居り、なお昭和4年12月本県陶業の振興を計画し旭窯業株式会社を設立、推されて初代専務取締役に就任、同社は工場を那覇市外古波蔵に有し、主なる製品に改良瓶、土管、改良沖縄瓦等あり。
天資淵良恭謙、皎月と号し俳句を能くす。

沖縄県人事録(昭和12)


古波蔵の旭窯業所ですね。
またこの人は絵葉書を発行していた坂元商店の主です。

大正末期から戦前まで古波蔵に旭窯業所があった、そこでは土管、アルコール壷、植木鉢、屋根瓦、陶器等幅広く焼かれていた。
那覇市史資料編第二巻中の7、p362


那覇市史の記述とは食い違いますが昭和には古波蔵にあったということで。
輸出のための酒甕なども不足気味だったようですから「実用品」としての陶器製造に取り組んだのでしょう。

沖縄県人事録(大5)からも一部抜粋しておきます。画像は「沖縄県立図書館 貴重資料デジタル書庫」からダウンロードしたもので画像加工してあります。
坂元栄之丞
那覇区大門通りに堂々たる店舗を構へ、県下唯一の風景絵葉書見世として隆盛を極めつつあるは、即ち君が管理せる坂元商店なり。君は明治8年を以て鹿児島市住吉町に生る、県下銀行界の老練家として声望ありたる、亡重幸氏の長男にして大正2年8月家督を相続せり。
18歳の時はじめて本県宮古島に来り、叔父の経営せる商業及び開墾事業に従事し、三年間を精励恪勤して信望ありしが、其後那覇に出でて井ノ口材木店に入り、爾来8ヶ年間を忠実に勤務して内外の信望厚く、専ら土木請負に寿示して敏腕を揮ひたり。明治38年遂に同店を辞して現地に独立開業し、竹器、諸家具類、額縁、絵紙、沖縄風景絵葉書、味噌醤油其他雑貨類を販売して漸次に拡張し、現今鹿児島商業出身の令弟酉三君に其全権を譲り、隆盛以て今日に至れり。君は現に来管理者の位置に在り、而して仁寿生命保険株式会社及徴兵保険株式会社の代理店を兼業として活躍しつつあり。
沖縄県人事録(大5) (抜粋と編集)

別ページでの坂本商店の案内。一行消えてしまってます。

坂本商店は那覇唯一の繁栄地たる大門前の久米通り角にあり
---
県下唯一の写真原料品店として
沖縄県人事録(大5) (抜粋)

酒造業界と政治

酒造連合第5代(1950〜51)会長の花城清用さんの供述から引用します。花城さんは酒造業者だったわけではなくて新聞記者だったのですね。

昭和初期の酒造業者は、多額納税者でありながら税務署には頭があがらず、また税務署側も酒造業者には常に高姿勢で臨み、その横暴さも目に余るものがあった。こうした状況下で、私[花城清用]は昭和7年沖縄酒造組合主事、兼同連合会理事に就任したが、これは今考えると少々おかしな事でもあった。当時、わたしは琉球新報社の記者(社会部長)をしていて仕事には別に不満はなかった。ところが、酒造組合長で首里市議だった佐久本政良氏、首里市長の高安玉兎氏や県議をしておられた粟国永伝氏及び地元の関係業者が「ぜひ酒造組合にきてくれ」と要望して来たのである。
酒造業者や先輩たちは、当時、紙ハブと恐れられていた新聞記者を組合に入れ、逆に税務署にニラミをきかそうという魂胆だったのである。「いつも税務署にいじめられているので、なんとかしなければならない」と思案した結果、こうした対処策がうまれてきたものだった。
当時は本土出身者が県庁や警察、その他の政府機関の要職をつとめ、県出身者は弾圧されている時勢であった。
昔の酒屋は誇りと気骨があり、私を酒造組合に入れたのも、こうした自衛策のひとつだったのである。

昔の酒屋は多数の議員をそれぞれの議会に送り出すなど、県内各種業界を常にリードしていた。首里の市議はもとより貴族院議員まで酒屋がバックになって送り出したものだ。平尾喜三郎氏もそのひとり、平尾氏は二期連続当選させたが、その後がまを息子の喜一氏にゆずったこと、さらに平尾氏が本土出身であったため組合から反発と批判の声があがった。「地元出身者の候補を立てよう」という動きがにわかに活性化したのである。人選には慎重を期し、仲村清栄(第一銀行頭取)を擁立、見事当選させたが、部下が不正行為を働いたため、清廉潔白な仲村氏は議員生活三ヶ月で引責辞職してしまった。その後当間重民氏を押し立て、当選させるなど酒造組合は、政治・経済に底知れない力を発揮していた。
酒連50年史 泡盛産業と私/花城清用 p154(抜粋と引用)


第2代(1930〜34)会長は平尾喜三郎です。
当間重民はここなども参照して頂きたい。

昭和17年(1942年)に多額納税者議員の資格で貴族院議員となった。終戦後は沖縄に戻り、沖縄諮詢会や沖縄民政府の幹部を歴任した。1949年に那覇市長に当選した。
当間重民 - Wikipedia

ニセ泡盛と容器

泡盛の容器と島外生産の泡盛について瑞泉酒造の「語り部の庵」から引用します。

https://hs32.drive.ne.jp/zuisen.co.jp/aboutus/legend/article_30.html
泡盛の本土輸出は、琉球泡盛産業株式会社が一手に引受けていたが、これについては賛否両論があったようだ。しかし、宣伝が一括してできることや、輸出元を一元化して販売することによって、無理な競争や価格暴落をふせぐメリットがあった。さらにはラベルや容器を統一し、泡盛類似品との差別化を図るという効果もあった。いわば、沖縄ブランドの泡盛である。当時は九州でも泡盛が製造され、泡盛の名前で本土市場に流れていた。鹿児島では「薩摩泡盛」というのを作って、売り出していた。沖縄の泡盛は五百年の伝統の上に製造されているもので、容器はそっくりでも、中身は全然別物であり、泡盛の品質が誤解される恐れがあると私たちは大いに懸念していた。ただ、価格が九州産泡盛の方が安価であったから、かなり出回っていた。
 琉球酒造組合連合会が正式に認可された昭和33(1958)年12月現在、沖縄の酒造業者は連合会の会員たる酒造組合の組合員だけで121軒。連合会傘下に属しない酒造所が奄美大島に3軒あって、合計124軒だった。 その内訳は次の通りである。
南部酒造組合 44軒
中部酒造組合 13軒
北那覇酒造組合 21軒
宮古酒造組合 21軒
八重山酒造組合 22軒
奄美大島 3軒
合計 124軒


ちなみに那覇の酒造家たちの名簿はこの「南部酒造組合」から現那覇市の区域に住所のある人間を抜き出したものです。
「酒連50年史」から沖縄以外で造られた泡盛関連を引用します。

泡盛の小売価格低減によって販売増加を見込んだ本土業者が「ニセ泡盛」を製造、関西地区のデパートなどで公然と販売した。この「ニセ泡盛」は3号の壷入りで、壷のデザイン、形等が本場のものとそっくりなうえ「琉球泡盛」という商標も貼られているが、中身は焼酎。その値段は220円(日本円)で、本場の琉球泡盛より40円も安く売られた。
1959(昭和30)年大阪の百貨店で催された「鹿児島の観光と物産展」で(略)売れ行き好調の「琉球泡盛」は製造元が名瀬市の酒造会社で、洋酒のポケットびんと1号びん入り、2号壷入りで、尚家の三つ巴の御紋をレッテルにデザインした。しかし中身の泡盛は本場物とは異なり、琉球政府大阪物産斡旋所を慌てさせた。また、「錦泡盛」「古式泡盛」も本土市場で出回り、商業道徳が問われた。
---
ニセ泡盛の2号壷は沖縄から輸入したらしいので、空壷だけの輸出はできるだけ見合わせるよう業者に訴える。
1号瓶のレッテルは沖縄では紙レッテルを貼っているが、大島産のものは刷り込みで意匠も立派である。これに対抗して詰め替え免許が早く採れるよう協会で努力し、工場設立の具体策を練る。
酒連50年史 p56(省略と抜粋)


流通コストからくる価格高、容器の問題(少量のものがなく統一されていない)、本場のものとそれ以外を区別する手段がないなどの問題が見えます。
それとレッテル(ラベル)などでのイメージ・販売戦略不足も認識されていたようです。沖縄イメージをもつ焼物に詰めたり、それっぽいラベルを製作したりなど沖縄側の商売センスの上を行く敵に学んだという面もあるでしょう。

これらのことがらは結果的に、銘柄や商標の確立、容器の統一と確保・再利用ルートの確立、などに繋がってゆくように思えますが残念ながらそこまでは書いてありません。
銘柄ラベル付きビン詰めの販売以外は酒場への販売に不向きだったというのもあるはずで、これらは県内での洋酒などを含む酒類の消費スタイルの変化と対応しているようにも思えます。

泡盛の容器

泡盛のビンについて瑞泉酒造の「語り部の庵」から引用します。

https://hs32.drive.ne.jp/zuisen.co.jp/aboutus/legend/article_27.html
戦前は、泡盛の販売は、製造元からトゥータンで卸売りされ、小売店はこれをさらに量り売りしていたからラベルなどの必要性はなかった。せいぜい年一回の国税局鑑定部主催の鑑評会に出品する一升瓶にはりつける程度であった。
 一斗入り(18リットル)の水罐でバラ売りが行われるようになったのは、戦後、酒造業が民営に移管されてからである。容器詰め(一合瓶、三合瓶、一升瓶)にして売り出した最初の業者はたしか識名酒造で、昭和25(1950)年~昭和28(1953)年頃だったと思う。これが飛ぶように売れた。その時の瓶は本土から入ってきたソースの空き瓶だったようである。
 わが社が、「もうバラ売りの時代ではない」と判断して瓶詰の販売に踏み切ったのはたしか昭和33年頃だったと思う。

https://hs32.drive.ne.jp/zuisen.co.jp/aboutus/legend/article_28.html
このように泡盛も瓶詰めの時代となったが、瓶製造工場があるわけでなく、使用済みのビール瓶や醤油瓶を回収して、再利用していた。当時は、空き瓶回収を生業とする人がいて、その人たちが集めてくれるのだが、数を確保するのには苦労した。集めた瓶を洗うのも手作業で、一本、一本ブラシで洗っていた。間に合わない時は買いつけ業者の人に手伝ってもらっていたぐらいである。
 瓶に酒を詰めるのも、ゴムのホースを使って並べた瓶に詰めていた時代だから、すべて手作業である。始めのころはコーラの王冠を集めてきて、整形して使っていた。王冠はしばらくして、専用のものを作ったが、瓶の方は復帰の頃まで再利用品であった。


「(ラベルなどは)年一回の国税局鑑定部主催の鑑評会に出品する一升瓶にはりつける程度であった」というのが戦前のようすであったようです。ビンでの販売ではなく大きな容器(甕、トタン缶など)に入れて輸出し、小ビンに詰め替えたり量り売りをしたということになります。
「酒連合50年史」からビンについての部分を抜出します。

戦後に泡盛の陽気は米軍が使い捨てたからビンをゴミ捨て場などから拾い集めて使用したり、本土の醤油びん、ビールビンなどを使用したりしたが、1954(昭和29)年には極度の空ビン不足が業界を襲った。その原因は業者が空ビンを買い集め、本土や台湾に輸出していたからである。酒造組合連合会の調べによると、同年1月から4月までの空ビンの輸出は70万本になり、泡盛、醤油業者は深刻な容器(ビン)不足に陥った。
この頃、県内に硝子製造業者はなく、焼物の壷に泡盛や醤油を詰めて販売すると壷の値段が重なってコスト高になり、庶民向けではなかった。そこで市中に出回っている本土メーカーの空ビンを活用する以外に方法がなかったのである。
酒連合50年史 p51


昭和30年代初頭(1956)まで順風満帆に販路を拡大していた泡盛業界は、日本酒、国内産ビールの増産および輸入ウイスキー、ビールなどの攻勢によって需要が減少した。特に北九州では泡盛の消費量は減る一方で(略)1956(昭和31)年度の半分以下の落ち込みだった。「売れない泡盛」の原因は、
(1)品質が悪い
(2)手頃な2合、4合びん詰めがない
(3)焼酎より高い
などがあげられた。
酒連合50年史 p53、54


1950年代中盤に輸出された泡盛は2、4号瓶などのパッケージではなかった事がわかります。

【追記】
容器の種類
二斗五升 一斗 五升、銅板製 トタン製の二種、銅製は青錆が生じる故中に錫を張った、戦時中銅の使用を禁ぜられトタン容器が主だった。
運送方法
馬の背左右に一個宛積みそれ以上の場合荷馬車で運ぶ。県外出荷の容器は綱巻きの壷を用いた。
(首里醸造業 佐久本政良氏談)
那覇市史資料編第二巻中の7、p418(抜粋と編集)

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