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酒造業界と政治

酒造連合第5代(1950〜51)会長の花城清用さんの供述から引用します。花城さんは酒造業者だったわけではなくて新聞記者だったのですね。

昭和初期の酒造業者は、多額納税者でありながら税務署には頭があがらず、また税務署側も酒造業者には常に高姿勢で臨み、その横暴さも目に余るものがあった。こうした状況下で、私[花城清用]は昭和7年沖縄酒造組合主事、兼同連合会理事に就任したが、これは今考えると少々おかしな事でもあった。当時、わたしは琉球新報社の記者(社会部長)をしていて仕事には別に不満はなかった。ところが、酒造組合長で首里市議だった佐久本政良氏、首里市長の高安玉兎氏や県議をしておられた粟国永伝氏及び地元の関係業者が「ぜひ酒造組合にきてくれ」と要望して来たのである。
酒造業者や先輩たちは、当時、紙ハブと恐れられていた新聞記者を組合に入れ、逆に税務署にニラミをきかそうという魂胆だったのである。「いつも税務署にいじめられているので、なんとかしなければならない」と思案した結果、こうした対処策がうまれてきたものだった。
当時は本土出身者が県庁や警察、その他の政府機関の要職をつとめ、県出身者は弾圧されている時勢であった。
昔の酒屋は誇りと気骨があり、私を酒造組合に入れたのも、こうした自衛策のひとつだったのである。

昔の酒屋は多数の議員をそれぞれの議会に送り出すなど、県内各種業界を常にリードしていた。首里の市議はもとより貴族院議員まで酒屋がバックになって送り出したものだ。平尾喜三郎氏もそのひとり、平尾氏は二期連続当選させたが、その後がまを息子の喜一氏にゆずったこと、さらに平尾氏が本土出身であったため組合から反発と批判の声があがった。「地元出身者の候補を立てよう」という動きがにわかに活性化したのである。人選には慎重を期し、仲村清栄(第一銀行頭取)を擁立、見事当選させたが、部下が不正行為を働いたため、清廉潔白な仲村氏は議員生活三ヶ月で引責辞職してしまった。その後当間重民氏を押し立て、当選させるなど酒造組合は、政治・経済に底知れない力を発揮していた。
酒連50年史 泡盛産業と私/花城清用 p154(抜粋と引用)


第2代(1930〜34)会長は平尾喜三郎です。
当間重民はここなども参照して頂きたい。

昭和17年(1942年)に多額納税者議員の資格で貴族院議員となった。終戦後は沖縄に戻り、沖縄諮詢会や沖縄民政府の幹部を歴任した。1949年に那覇市長に当選した。
当間重民 - Wikipedia
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