「当間重剛回想録」に当間重民の酒造業について書いてありました。
三男、重民は明治33(1900)年に生まれた。早稲田大学英文科を卒業、沖縄県立一中の教師を希望したが生活の心配がないからとの理由で採用を断られた。そのころ不況で那覇市内の島袋、津波古といった酒造所が倒産した。重民は島袋酒造所を買って酒造業を始めたが、それが成功して、泡盛の年産220石だったのが300石にまで伸びていった。
当間重剛回想録 p24、25大正7年沖縄県立第一中学校を卒業し、進んで早稲田大学高等師範部英語科に学び、同14年同校を卒業して一年志願で入営し陸軍歩兵科少尉に任官す、満期除隊後は酒造業に従事
グダグダ 当間重民大正14年に大学卒業した後に1年は陸軍、戻ってから酒造業を営むという経過でしょうか。大正末期からの不況(ソテツ地獄)は深刻なものでした。
倒産したとされている「津波古」は津波古酒造場?
酒造連合会が結成されたのは昭和3年、時の内務部長を初代会長として発足した。大正末から昭和初期にかけては世界的大恐慌で県経済は四苦八苦の状態であった。昭和3、4、5年が業界にとっては一番苦しい時期で、多くの酒造所が倒産のやむなきに至った。
グダグダ 戦前の酒造業界当間重民に酒造経験はなかったはずですから倒産した酒造所の職人たちを雇用したのでしょう。
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