泡盛の容器と島外生産の泡盛について瑞泉酒造の「語り部の庵」から引用します。
https://hs32.drive.ne.jp/zuisen.co.jp/aboutus/legend/article_30.html
泡盛の本土輸出は、琉球泡盛産業株式会社が一手に引受けていたが、これについては賛否両論があったようだ。しかし、宣伝が一括してできることや、輸出元を一元化して販売することによって、無理な競争や価格暴落をふせぐメリットがあった。さらにはラベルや容器を統一し、泡盛類似品との差別化を図るという効果もあった。いわば、沖縄ブランドの泡盛である。当時は九州でも泡盛が製造され、泡盛の名前で本土市場に流れていた。鹿児島では「薩摩泡盛」というのを作って、売り出していた。沖縄の泡盛は五百年の伝統の上に製造されているもので、容器はそっくりでも、中身は全然別物であり、泡盛の品質が誤解される恐れがあると私たちは大いに懸念していた。ただ、価格が九州産泡盛の方が安価であったから、かなり出回っていた。
琉球酒造組合連合会が正式に認可された昭和33(1958)年12月現在、沖縄の酒造業者は連合会の会員たる酒造組合の組合員だけで121軒。連合会傘下に属しない酒造所が奄美大島に3軒あって、合計124軒だった。 その内訳は次の通りである。
南部酒造組合 44軒
中部酒造組合 13軒
北那覇酒造組合 21軒
宮古酒造組合 21軒
八重山酒造組合 22軒
奄美大島 3軒
合計 124軒 ちなみに
那覇の酒造家たちの名簿はこの「南部酒造組合」から現那覇市の区域に住所のある人間を抜き出したものです。
「酒連50年史」から沖縄以外で造られた泡盛関連を引用します。
泡盛の小売価格低減によって販売増加を見込んだ本土業者が「ニセ泡盛」を製造、関西地区のデパートなどで公然と販売した。この「ニセ泡盛」は3号の壷入りで、壷のデザイン、形等が本場のものとそっくりなうえ「琉球泡盛」という商標も貼られているが、中身は焼酎。その値段は220円(日本円)で、本場の琉球泡盛より40円も安く売られた。
1959(昭和30)年大阪の百貨店で催された「鹿児島の観光と物産展」で(略)売れ行き好調の「琉球泡盛」は製造元が名瀬市の酒造会社で、洋酒のポケットびんと1号びん入り、2号壷入りで、尚家の三つ巴の御紋をレッテルにデザインした。しかし中身の泡盛は本場物とは異なり、琉球政府大阪物産斡旋所を慌てさせた。また、「錦泡盛」「古式泡盛」も本土市場で出回り、商業道徳が問われた。
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ニセ泡盛の2号壷は沖縄から輸入したらしいので、空壷だけの輸出はできるだけ見合わせるよう業者に訴える。
1号瓶のレッテルは沖縄では紙レッテルを貼っているが、大島産のものは刷り込みで意匠も立派である。これに対抗して詰め替え免許が早く採れるよう協会で努力し、工場設立の具体策を練る。
酒連50年史 p56(省略と抜粋)流通コストからくる価格高、容器の問題(少量のものがなく統一されていない)、本場のものとそれ以外を区別する手段がないなどの問題が見えます。
それとレッテル(ラベル)などでのイメージ・販売戦略不足も認識されていたようです。沖縄イメージをもつ焼物に詰めたり、それっぽいラベルを製作したりなど沖縄側の商売センスの上を行く敵に学んだという面もあるでしょう。
これらのことがらは結果的に、銘柄や商標の確立、容器の統一と確保・再利用ルートの確立、などに繋がってゆくように思えますが残念ながらそこまでは書いてありません。
銘柄ラベル付きビン詰めの販売以外は酒場への販売に不向きだったというのもあるはずで、これらは県内での洋酒などを含む酒類の消費スタイルの変化と対応しているようにも思えます。
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