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部落内道路拡張

識名部落内の道路拡張では1965年5月の識名部落道路拡張完成式典の記事を取り上げました。
今回は前年1月の記事ですが拡張工事が行われている部落名がわかります。ですが「戦前の城下町あるいは古い農村の形」の条件を満たす集落はこれだけではないわけですから、これらの部落も工事が行われているはずです。那覇市内での古い農村は真和志に集中しています。

車も通る明るい部落に
識名末吉町など市が道路拡張
那覇市は今年度の予算に35000ドルを計上してきまった職業を持たない市民を市の失業対策事業で働いてもらっている。
これまでの失対事業は、市内にある空地の草刈や川の清掃、道路の補修が主な仕事となっていたが今年度からは真和志や首里の農家部落の改造事業を集中的に実施、すでに首里末吉町、石嶺町、真和志字上間、字識名の改造が進んでいる。
この部落は戦前の城下町あるいは古い農村の形がそのままのこり、部落内には車も入れない状態で、こんどの部落改造事業で各部落に4米以上の道路を舗装し、交通をさまたげる木や草を刈り取ったため、部落内がみちがえ[る]ほど明るく、便利になり、近郊農家からは好評を受けている。
市民の友 1964年1月30日 第173号(抜粋と編集)


参考として県下の自動車台数と免許保有者数。

自動車台数 60〜69年
14412、17559、22558、28843、32521、41427、54296、70290、84428、96368
免許保有者数 60〜69年
33566、42559、49925、64500、78082、92143、112459、128284、145431、162443
グダグダ(β) 自動車教習所関連


市民の友には部落内道路拡張記事はもう無いようですので60年代の新聞記事などを探せば完成時期などがわかるんでしょう。

参考:グダグダ(β) 那覇はどう変わったか(63年) 4 (真和志の古い集落)
参考:グダグダ(β) 首里から見た真和志
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戦後のアイスキャンデー

高良嘉永さんがアイスキャンデー製造を手がけた話を自伝から引用します。
高良さんが昭和26(1951)年10月に熊本から帰郷すると牧志一帯にあった自分の土地は割当土地として人が住んでいて、新県道が通ってはいるものの静かだった牧志部落は繁華街になっています。

沖縄に帰ってきた当初、一番珍しかったのは、米国産のコカコーラやバヤリースジュースであった、本土ではやっとラムネが出回りはじめた頃である。
国際通り沿いにあった国際劇場は、当時那覇で唯一の興行場で、いつも映画や芝居で大賑わいだった。その道向いの私の土地(現在の高良産業ビルの敷地)に住んでいた国吉氏が安謝へ引っ越すことになり、私に家を譲ってくれたのだが、しばらくして別の人から、そこでアイスキャンデーを製造販売したいとの申し出があった。1952(昭和27)年のことである。
申し出のあった当山氏と奥間氏がそれぞれアイスキャンデー製造機を一台ずつ設置し、私が土地と家を提供することで話がまとまり、三者で共同経営することになった。
キャンデーは飛ぶように売れた。午前3時頃から晩の9時頃まで自家発電で機械を連続運転して、毎日3000本を製造した。目のまわるような忙しさであった。売り子が30名程いて、1本5円売りのキャンデーを3円で卸していた。売り子も多種多様で、自転車の後ろに荷物台をつくり、キャンデーをのせて走る青年、キャンデー箱を頭に載せて売り歩く小母さん、キャンデー箱を脇にかかえて市場内を売り歩く若い女の子らで店は大いに賑わった。
お陰でその年の夏場は30万B円の利益を得て、税務署に申告するほど儲ったが、翌年は、自家発電をやめて桜坂の準電気業者から受電して製造機を運転したところ、操業時間が短縮されてしまい、利益は皆無であった。そういう訳で、2年目であえなく操業中止となる。
高良嘉永人生記 働きざかり・花ざかり  p105、106(抜粋と編集)


このブログでは「沖縄主要地主要商工年鑑」の51、52年版を使って50年代初期の那覇市内の繁華街の様子をまとめています。カテゴリの市場では公設市場などだけではなく繁華街を含めた商業地を扱っています。
またブログ上部の「MENU」をクリックする検索窓のあるウインドウが開いてブログ内検索ができるのですが、ここに「アイスケーキ」と入れると「沖縄主要地主要商工年鑑」のいくつかの図が該当します。おそらく50年代初期には那覇の繁華街にいくつかのアイスキャンデー・アイスケーキ販売製造元があり、さまざまな販売方法で売られていたんでしょう。

アイスキャンデー売りがアイスクリン売りの元祖みたいなもんだとすると下手したら親子三代で経験している人がいるかも(笑)。
参考:アイスクリン 沖縄 - Google 検索

宮城亀寿

断片的にしか情報のない人ですがとりあえず。

昭和16年の統制令を機に、沖縄酒類販売会社を設立する。社長に私[石川逢篤]、専務に佐久本政良氏、当間重民氏、取締役に宮城亀寿、津嘉山至亀氏、中尾平一郎氏、(略)を選出、原料米購入、販売割当を一括して行い、統制経済下の社会的要請にこたえた。
グダグダ(β) 戦前の酒造業界


この図は「戦前の昭和初期牧志町民俗地図」を模したものですが宮城酒屋があります。

自分の書いたものでは宮城酒屋としか書いてありませんが、元図では「酒屋 宮城亀寿 フロヤ」と書かれています。
牧志生まれの高良嘉永さんは宮城酒屋を以下のように記憶しています。

男4人兄弟のうち、私1人しか残っていなかったので、皆にかわいがられた。4、5才までは、たまに母につれられてお湯に行くことがあった。女湯は部屋がうす暗く、着物をつけたまま湯ぶねに入っていた。当時の女は肌を見せない風習があったようだ。その後は、お風呂には必ず父に連れていかれた。崇元寺橋際の宮城泡盛醸造所は、酒造りに使って熱くなった冷却水(酒水)を利用して風呂屋を経営していた。
高良嘉永人生記 働きざかり・花ざかり  p7(抜粋と編集)


今のところはこれくらいです...

【追記】昭和12年の酒造業者名簿に名前がありました。
牧志町2ノ1/宮城亀寿
グダグダ(β) 昭和12年の酒造業

市民集会所(美栄橋)

左写真は1958年7月に美栄橋に建設された市民集会所(無断借用失礼)で右図はゼンリン地図69年版を参考に作成。場所は現国場ビル向いの三角公園内でしたが97年に取り壊されたようです。

なにやら跡地には碑がある模様。

市民集会所は、沖縄が米軍統治下にあるとき、祖国日本の勤労者組織である
日本労働組合総評議会から、那覇市に贈られた資材で建設された。

http://moritaxi.ti-da.net/e3047877.html


下左写真はまちのたね通信の写真から切り抜いたものです。ゼンリン地図69年版での名称は、琉球セメント株式会社(A)、日高ミエ子・古賀善次・大城善松(B)、球陽館(C)、市民集会所(D)

http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=1671

こちらの写真は市民集会所の全景が写っていました。球陽館後方から市民集会所を望むアングルです。

那覇まちのたね通信 | 球陽館
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=3407

【改訂】以前Bの日高は日高栄次郎の身内という妄想をもとに推測していましたが、「日報の沖縄人名録(昭和12年)」を見ていたら「美栄橋町1ノ46/製材業 日高開蔵」という名がありました。
姓からして寄留商人ではあるんですが戦前の古賀商会と安易に結びつけたのは失敗でした...
以前のは折り畳んでおきます。

65年の建設事業計画

65年度の建設事業計画を抜粋します。

道路新設
開南交番-平和橋間に幹線道路を新設
陸運局-1号線間
アスファルト舗装
警察本部-港湾道路間
ひめゆり通り-真和志小校間 市内一周線
久茂地川沿線西側
河川改修
ガーブ川上流の整備
平和橋-四条橋間
安里川の改修工事
きぶんじゃ川の改修工事
三原川の改修工事
公園造成
与儀文化公園の整備造成を計画
市民の友 1964年1月15日 第165号(抜粋と編集)


「建運局-1号線間」は若狭大通りから58号線間の那覇商高前を通る道(1966年5月完成)、「警察本部-港湾道路間」は県庁あたりから泉崎交差点を経て港までまっすぐ進む道(1965年6月24日完成)、「ひめゆり通り-真和志小校間 市内一周線」は真和志小-黒丸宗-繁多川交番-三原教会前-大道小前-ひめゆり通りの道、「久茂地川沿線西側」は御成橋-前島橋-崇元寺橋の道(1965年6月28日完成)。
「ガーブ川上流の整備」は記事を引用します。

1962年度よりはじまる日米琉政府の大幅な財政援助により、本格的な改修工事が進められ、1964年予算までの事業として、むつみ橋下流から農連市場裏の平和橋までの1044メートルが改修されることになっており浸水地域の大幅な整備が行われることになっている。
さらに65年度においては、平和橋から神里原-与儀十字路間道路にかかる四条橋間の242メートルを引き続き改修する計画をたて、工事費総額38000ドルのうち、30000ドルを琉球政府に補助申請した。


「安里川の改修工事」は蔡温橋から姫百合橋間、「きぶんじゃ川の改修工事」と「三原川の改修工事」は引用します。

きぶんじゃ川は、真和志三原、大原の開眼橋、三原橋、振興橋を通り安里川へ注ぐ(略)素堀のままとなっているため、流水の浸食が激しく、流域の住宅が危険な状態にある。65年度においては、安里川分岐点から振興橋間の485メートルを改修を行って、都市防災を予防することになったもの。
---

三原川は松川小学校前より真和志2号線間を流れているが素堀のままとなっている。このため大道練兵橋から上流、真和志2号線までの465メートルを改修する計画を立て(後略)

公園造成は省略しますが低地のため埋立や排水工事を行う必要があることが書かれています。

開南交番-平和橋間道路計画

開南バス停から農連そばを通り大洋劇場に至る道路の計画です。

上図は市民の友に掲載の図を模写したもの。ここで取り上げたいのは平和橋ですが正確にどこにあったのかはわかりません。
模写した図から読み取れることをあげてみると、神里原大通りからまっすぐ農連市場に進む道が川と交差する箇所に平和橋があること、平和橋は新設される道路のすぐそばにあることがわかります。ですので上で推定した平和橋の位置は間違っていないと思われますし、大洋劇場裏から平和橋へ真っ直ぐ進む道が推定した平和橋の位置で交差することもこれを裏付けるかと思います。
元図では神里原から来た道は平和橋で開南通り(仏壇通り)にむけて曲がっているのですがこのあたりはよくわかりません。

65年の首都建設事業計画特集
都計幹線道路を新設舗装
那覇市内の道路は、タール舗装を中心とする道路整備5ヶ年計画により、1968年度までには、50%以上舗装整備できる見通しであるが、これは既成市道が対象となっており、都市における交通マヒを根本的に解決することはできないので、都市幹線道路の新設が必要とされている。
そのため琉球政府への財政援助のうちでも、道路新設と舗装整備を重視し、開南交番から平和橋間の道路新設など、32万ドルにのぼる事業が計画されている。
道路新設 開南交番-平和橋間に幹線道路を新設
これは旭町交差点から、那覇高前、開南交番前を通り、平和橋、大洋劇場を経て、神里原十字路に結ぶ都市計画道路で、これを年次計画で実施することにし、65年度には第一次計画として、開南交番から平和橋間に、長さ120メートル、はば18メートルの幹線道路を新設する計画である。
開南通りは、農連市場と南部農村や近郊の農家を結び、旧市街から、真和志方面への通過道路として、市内でも国際通りにつぎ交通量のもっとも多い道路であるが、開南交番から大洋劇場、神里原十字路を結ぶ幹線道路が設置されてないことに、市内交通マヒの大きな原因があるとされており、この道路を新設することにより道路交通を大幅に緩和できるものと期待されている。
市民の友 1964年1月15日 第161号(抜粋と編集)


1952年あと頃の「最新那覇市地図」で平和橋がどうなっているのか見てみました。

那覇劇場横を通る道は直進して川にあたったところで終わっています。平和橋より上流(与儀公園側)には試験場用地があり二ヶ所橋がありました。図には敷地や周囲の道路との関係を考えて図に描いてあります。

希望ヶ丘公園の不明土地記事

地主は市都計画課へ
希望が丘公園の土地
那覇市では、1964年度の公園事業として希望が丘公園を整備することとなっています。ところが希望が丘公園用地内に持ち主がわからない土地と、持ち主がわかっていても、その人たちの住所がわからず、公園整備をすすめる上に支障をきたしていますので、つぎに該当する方は、都市計画課緑地係までお知らせ下さい。
▲所有者不明の土地
牧志町2丁目(番地略/11箇所)--以上墓地、(番地略/5箇所)--以上原野
▲所有者の住所不明の土地
▽牧志町2丁目131 畑-佐久川K(後略)
市民の友 1963年12月25日 第160号(抜粋と編集)


略してある部分の内訳はこうなっています。

墓/嘉数 5、高良 6、その他16
原野/金城、宜保
畑/佐久川、国吉、高良
宅地/上原 2、与座、玉城、赤嶺、田畑


宅地を除いた部分で出てくる姓は以下。

佐久川、高良、嘉数、比嘉、国吉、金城、島袋、名城、小橋川、高江洲、宜保、新里、安次嶺、山田、山口、城間、喜屋武

「戦前の昭和初期牧志町民俗地図」に見える姓は以下。

高良、嘉数、幸地、佐久本、名里(屋号?)、武富、玉井、比嘉、友寄、宮城、幸地、大城、上門(屋号?)、瑞ケ覧、仲村、具志堅、羽地(以上新県道から前島側/中心部はほとんど高良と嘉数)
高良、嘉数、ヨギ、上門(屋号?)、東外間(屋号?)、城間(新県道から壷屋側/現てんぶす周辺)
宮城、奥原、具志堅、小浜、村吉(前島島小)

「壷屋町の民俗地図」に見える姓は以下(書いていないものもあります)。

仲本、新垣、常賀、平田、友寄、大嶺、辺野喜、仲本、儀間、島袋、西仲(屋号?)、安里、川門(屋号?)、兼島、花城、宜保、玉那覇、富名腰、宮里、喜納、知念、安次嶺、高江洲

希望ヶ丘公園は北に牧志、南に壺屋なのでこの周辺の人間の墓地があったと思われます。一ツ松尾・二ツ松尾で取り上げた高良嘉永さんの自伝では、牧志に古くから住む高良家祖先累代の墓は現希望ヶ丘公園にあったと書かれています。
また市民の友の記事内には所有者住所不明地の所有者氏名がフルネームで出ているのですが、この中には高良嘉永、高良郎栄、高良盛一(なみさと)などの名前が見えます。

参考:グダグダ(β) 島小(前島)
参考:グダグダ(β) 牧志のムートゥ(2)
参考:グダグダ(β) 牧志のムートゥ

「那覇 戦後の都市復興と歓楽街」

本のご紹介。

「那覇 戦後の都市復興と歓楽街/加藤政洋(フォレスト)」

出版社のサイト。
http://forest-web.jp/index.html

以下著者とは関係なく。

他府県のことはよく知りませんが、とにかく沖縄には、研究し、記録しておくべきことが多いですね。日本本土から離れた島であり、かつては一つの王国であり、侵略され、戦場となり、そしてまた他国の支配下におかれ、と、独特の歩みがあるからですね。しかもそんな中でも脈々と途絶えることなく受け継がれてきたものが、日本の文化のかなり根底の部分と深くつながっている。だから他府県の人たちも沖縄の文化や伝統に惹かれるのでしょう。
http://forest5155.ti-da.net/e3697136.html


この文が何処に向かって書かれているのか、はうちなーんちゅはよくよく考えておく必要がありますね。

【追   記】
感想。
歓楽街は「自然発生的」とされることが多いが、歓楽街の発生に行政の意図による誘導・隔離を見ること(栄町・辻)。那覇には「中心」がない。終章は意味わからず(自分の読解力不足による)。
【追記終わり】

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