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阿旦葉帽子会社と軍人遺族救護

県史に興味深いものがあったので引用します。

阿旦葉会社
今回、上運天憲直、真栄田正隆、楚南叔玉、小渡鴻翥、照屋林顕の諸氏発起となり十数名の株主によりて阿旦葉帽子製造を計画し、重に字久米軍人遺族を職工としいささか救護の途を尽す所あらんとす。大に有望なるこの事業にしてこの目的あるは商事会社としても亦特殊の美挙なりと評するものあり。
明治38年11月17日
沖縄県史 資料編6 新聞集成政治経済1 p677(抜粋と編集)


照屋林顕は実業家の金持ちです。久米にアダン葉帽子会社があったらしいのですが、それがこの記事で取り上げられたものかどうかはわかりません。
明治38年ですから日露戦争の遺族のようです。

【追記】「アダン葉帽子編み 比嘉道子」というアダン葉帽子について詳しく述べているものがありましたので引用します。

またこの年は日露戦争が勃発。新た徴兵令が施行された沖縄からも召集されて、3800人余が参戦している。そのうち戦死者205人、戦病者149人を出した。これらの軍人遺家族や帰還兵の就業が社会問題となっていた。そういう時代背景のもとに帽子編工募集も、「但シ帰還軍人及仝家族ハ特ニ優待ヲナス」という但し書がつく。
アダン葉帽子編み 比嘉道子/名護博物館紀要4 あじまぁ p228
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大正2年の泊市場の年末

昨17日那覇区内泊市場に参集せる種々の販売人は総て280人にして、内甘藷売12、豆腐売20、大根売9、野菜売22、豚肉売2、牛肉売3、てんぷら売1、魚売10、田芋売2、魚売1、味噌売3、カン売2、するめ売2、ムギカラ売2、わら売2、タキツク売5、そうめん売2
大正12.12.18 沖縄毎日 (1923)
那覇市史資料編 那覇市史資料編第2巻上 p306


那覇市史資料編第2巻上は新聞の集成で明治31年(1898)から大正3年(1914)までの琉球新報と沖縄毎日からの記事を抜粋収集しています。

魚売が10と1で二箇所ありますがそのまま引用しています(ターイユと区別してるのかも)。カン、ムギカラ、タキツクはわかりませんがなんでしょうか。
 •タキツクは焚き付け?
 •カンはカントーフ(焼き豆腐)?

参考:那覇市場(ナーファヌマチ)
参考:マチグヮー(那覇)

【追記】
泊市場は泊高橋から上之屋に通ずる県道沿いにあって、泊後道と上之屋に行く分岐点の高橋町1ノ74(現国道58号)にあった。
市のたつのは午前10時頃からで、これを「昼マチ」とよび、夕暮れ時からの市を「ユサンデマチ」とよんでいた。市に出る物品は、主に甘蔗、野菜、豆腐、肉類、魚介類や、燃料の「キビガラ」などが売買されていた。野菜、甘蔗などは隣接の浦添村仲西、宮城、城間、内間、勢理客、小湾方面から運ばれた。(略)
市場の機能運営は市直営の東町市場と異なり、入札制による請人の管理であった。
泊市場管理人=末吉業栄、次に友寄隆賀。
泊人の足跡/松村興勝 p17(編集と抜粋)

『南島風土記』にある「橋頭に泊町があり、朝夕二次の市が立った」というのが泊マチグヮーである。
泊マチグヮーは、北に浦添の農村をひかえ、西に泊兼久をひかえていたので、海の幸、山の幸の集散地であり、それは垣花マチグヮーとも似たような性格の市場であった。泊マチグヮーに収容しきれない物資は、泊高橋と汐渡橋をわたって「潟原マチグヮー」で処分された。
朝市は、近くの農家からの農産物が持込まれたがユサンディマチグヮー(夕市)になると近隣の主婦たちがトーフや魚、仲買した野菜などを売っていた。しかし、日が暮れる午后の6時、7時をすぎると市場も閑散となった。
那覇市史資料編第二巻中の7、p289、290(編集と抜粋)


泊市場には種々雑多な副食物が販売されていたが、肉類を販売する場所は、市場内の東側に位置した榕樹(ガジュマル)の下の掘建小屋があって、ここで肉類の販売をしていた。しかし、人員も少なく、販売人は主に小禄の人で、泊人としては有銘一人であった。市場で買い手が少ないと、四角の木箱に肉を入れ、天秤棒でかついで行商をする有様で、貧乏村の泊では、肉類を毎日の食卓にのせる家庭は少なかった。
泊人の足跡/松村興勝 p18

旭町埋立地の売却

旭町公有水面埋立地の売却
那覇市が埋立で造成した旭町公有水面の埋立地(約208000㎡)を埋立事業の償還費、都市計画事業の対応費、保育所建設費、公営住宅建設費、庁舎建設計画費、及び公債に当てるために次のように随意契約で売却することが承認された。
△崇元寺町1の144 石原昌信氏ほか9名に500坪1合を30006ドルで売却(坪60ドル)
△那覇バスターミナルKK取締役社長、上原敬和氏に3000坪を15万ドルで売却(坪50ドル)
△沖配電株式会社社長、国場幸太郎氏に1024坪を55335ドル、坪当たり55ドルで売却、沖配電では資材集積所、修理工場を増設する。
△沖縄バスKK社長、中山良輔氏に1034坪を56878ドル(坪当たり55ドル)で売却、沖縄バスでは修理工場、車庫をつくる。
△オキコ株式会社仲田睦男氏に547坪を32846ドル(坪当たり60ドル)で売却。
△社団法人沖縄タクシー協会社長島袋嘉之氏に277坪を16620ドル(坪当たり60ドル)で売却
市民の友 1965年7月15日 第155号


旭町には現在も沖電、バス会社がありますし、過去には国場ベニヤ(プライウッド社)がありました。少し前までタクシー会社もあったような記憶がありますが定かではありません。
崇元寺の石原昌信さんは他の場所にも名前が出て来ます。

所属未低地の編入二件
埋立は完了したがまだ所属未定地となっている次の二件が那覇市域に編入された。
△若狭町1丁目地先にある公有水面埋立地(面積1134坪、28年10月30日埋立人か、水族館、臨時観光ホテル用地として埋め立てたもの、所有者、石原昌信及び山内宗一両氏)
△那覇市が埋め立てた旭町公有水面埋立地42489平方米。
市民の友 1965年7月15日 第155号


「水族館、臨時観光ホテル用地」ってのはなんなんでしょうか。

流れ職人

記事タイトルは「四国の流れ職人が辻で殺人」となっています。

[大正3年]4月6日午後7時、辻遊廓後道奥村渠小路角で、兵庫県生れ野田安太郎(21)と香川県生れ末広茂太郎(25)は、電気会社の楚辺原屋取の国吉樽(40)と喧嘩、安太郎が懐中にかくしてあった白鞘の短刀で、国吉の左胸部を刺し即死せしめた。
野田は殺人後、もう一人の友人をさそって帝国館で活動写真を見物中、逮捕された。野田と末広は、本年1月来県、久茂地辺で樽皮製造に従事、辻遊廓で度々乱暴、遊女からもて余され、この日も荒神前に行き、勝手に上がり込んだものの、誰も相手にしなかったので玄関を出たとたんの事件となった。
被害者の国吉は、木挽業の同業者の節句模合で午後1時から飲酒、二次会の荒神前で飲み、仲間と出たところこの不運にあった。
大正3年4月8日
沖縄の遊郭 -新聞資料集成- p906 (一部編集)


樽皮製造に従事ということですから一応職人、寄留職人やその雇い人とは違う形で来県していますね。
被害者は楚辺原屋取ということですが楚辺原は那覇高校から城岳あたりになります。ちなみにこの辺りまでが真和志村です。

古波蔵部落の先住地付近から那覇の泉崎に接する近郊で主として那覇系統の寄留人部落。
那覇市史資料編第二巻中の7 p40

一味亭と帽子屋

新聞記事から一味亭が出て来たのでメモ代わりに。

善興寺の料理屋一味亭に6月上旬から伊予の松山から流れ来たお艶という酌婦が入った。大根かかぼちゃのようなお多福が集まる一味亭だから客の評判となったが、若狭町の帽子屋岩見某という40男もその一人だった。
お艶は金離れの良い岩見に身うけされることになり、90円の借金に10円の気前を見せて100円で一味亭から引きとり、天妃町で夫婦気取りの生活に入り、金の指輪に金時計、金縁めがねと200円もかけてお艶の関心を買うのに夢中となった。
これがいつしか岩見某の親分の耳に入り、妻子もある身で何事ぞ、と手切れ金100円をお艶に渡して別れさせた。お艶は本日出帆の大義丸で松山に帰ることになった。
わずか40日の間に借金を払い、黄金づくめのなりで故郷へ錦を飾るお艶を一味亭の仲間は羨んでいるという。
大正5年8月23日
沖縄の遊郭 -新聞資料集成- p839 (一部のみ抜粋)


一味亭が普通の料亭で内地から酌婦が借金でやって来ていることなどがわかります。かわいそうな岩見某は帽子屋となっていますが帽子編みはまだまだ儲っていたのでしょう。

参考:グダグダ 那覇の料亭

料理屋の酌婦

料理屋はあいまい宿というのが実態だったと思われますが、辻以外には貸座敷の免許がおりないのでこういう営業しかできないのでしょう。
新聞記事から寒水川(松川?)の料理屋を取り上げますが、この「料理屋女」は実態は娼婦であるのにも関わらず県などのジュリ統計数には入っていないはずなので県内娼婦の総数を考える時には考慮する必要があると思われます。年齢も若いので辻下がり(チージサガイ)でもないでしょう。
参考:グダグダ チージサガイ

首里区字寒水川玉城料理店の酌婦渡慶次ウシ(18)は、かねており島袋松という役者と無二の間柄となり、果ては後々のことまでも契り合い、店主よりの前借金4円もすでに支払い近日のうち他所へ引き移らんとせしに、ウシは近頃より足痛に悩まされ、やむを得ず、右の料理店にて治療中、島袋松は例の通りウシの寝室へ忍び入り、首里署の手に取り押さえられたるが証拠不十分にて放還。
明治35年7月7日
沖縄の遊郭 -新聞資料集成- p253
---
真和志間切松川村玉城料理店の酌婦、西原間切小橋川村番地不詳大城カマ(18)は、密淫売をなしたるかどにより署に於て留置取調中。
明治35年8月21日
沖縄の遊郭 -新聞資料集成- p255


玉城料理店が寒水川と松川の両方にあったか間違いか不明。

首里区字久場川料理店酌婦、大里間切宮城村番地不明の名城オト(21)は密淫売の所為に寄り拘置7日に処せられ、去る26日収監されたり。
明治35年6月29日
沖縄の遊郭 -新聞資料集成- p253


久場川にも料理店。

円覚寺住職にひかされた尾類

戦前の新聞は辻等のゴシップが結構載っています。

首里円覚寺の僧、雪下恵林は去る8月から嘉手納の一樹昌院から移ってきたばかりだが、神谷小路兼次小カナ(23)にほれ込み、大枚200円で身受け、寺へ連れて行ったが、あと100円の負債を出して欲しい、というカナの要求を蹴ったため、カナは元の廓へ逃げ戻った。
煩悩の鬼はお経の力でもどうともできず、あと100円だしてカナを連れ戻し、楽しい夢にふけっているが、花の廓と鐘の音わびしい両極端の二人の生活は辻の評判になっている。
大正5年10月29日
沖縄の遊郭 -新聞資料集成-より


生臭い話ではあります。

内地からの娼婦

「沖縄の遊郭」から引用します。

琉装淫売婦の行末
長崎県の産にて末永トラといえる淫売婦人が、情夫に欺かれ、八重山及び名護の各料理屋に酌婦と化けて密淫売を働きたる末、ついに本年那覇に来り、本県婦人の名義を借りて仲島遊郭より娼妓の鑑札をその筋に願出し、戸籍法違反のかどを以て、3円の罰金に処せられたる由は、かつて本紙にも記載したるが、その後もトラは此所各所の厄介になりてようやく露命をつなぎ居りしも、放埒に身を持ち崩したるものとて少しも辛抱できず、ついに路頭に迷う哀れかなき境界[ママ]となりしが、2、3寄留人の好意により旅費をこしらえ、昨日出航の薩摩丸より帰郷したりとぞ。
明治33年8月17日
沖縄の遊郭 -新聞資料集成- p174


沖縄に来たが地方の料理屋で売春、那覇で無鑑札の売春をして捕まったということですね。他人名義の鑑札での売春は戸籍法違反になるのか...
このへんにも疎くてわからないのですが、内地出身者が沖縄で鑑札をとることは困難だったのでしょうか。

八重山及び名護の各料理屋に酌婦と化けて密淫売を働きたる末」とありますが地方の料理屋は売春もおこなっていたところがあったようです。実際には売春宿であったところもあったのでしょう。
「沖縄の遊郭」は辻・仲島・渡地の記事だけではなく地方の記事も集めていて、密淫売の摘発や売春周辺の記事まであります。
時期的に考えるなら海外へ出る売春婦もいますし(からゆきさん - Wikipedia)、当時は国内であった大都市の台湾もあります。記事になった女性は長崎出身とのことですがWikipediaでは「長崎県島原半島・熊本県天草諸島出身の女性が多く」とされていますからそういう人だったのかもしれません。
また沖縄出身の娼婦も内地には結構な人数がいたようです。

料理屋の肴屋(サカナヤー)については以下参照。

たとえば、首里のアダニガー、糸満、与那原、馬天、泡瀬、屋慶名、普天間、嘉手納、名護、本部、塩屋、久米島、平良、石垣、沖永良部、徳之島、名瀬などの「サカナヤー(料理店を兼ねたあいまい宿)」に売られて落魄の晩年を送ることもあった。
なは・女のあしあと p128
グダグダ チージサガイ


関連:グダグダ ジュリと料理屋女

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