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資産の売却

廃藩置県の際360戸とも380戸ともいわれた有力士族(御殿、殿内)は1910(明治43)年まで年々総額14、5万円も国庫から金録の支給を受けた。他の国庫支出金の総額が25〜68万円の頃である。しかし多くが居食いとなったため、衰退が激しかった。当蔵、大中、桃原、儀保、赤平など、御殿、殿内の広荘な邸宅の多くは、売り払われ、あるいは貸し出されて学校、寄宿舎、職員官舎、勃興して来た平民、旧平士の事業家、医師の屋敷、工場などになり、また貸家や家を小さく区切って貸間、下宿などになっていった。
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首里区立実業補修学校校舎=義村御殿
女子工芸学校寄宿舎=小禄殿内
女子工芸学校新校舎=浦添御殿
沖縄県師範学校女子部寄宿舎=伊江殿内、豊見城殿内、小禄殿内
なは・女のあしあと p56、67


ここでは首里のことが取り上げられていますが同じようなことはどこでもあったでしょう。
新聞記事に現れた尚家の資産売却広告を取り上げてみます。

首里区字汀志良次69、聞得大君御殿
瓦屋1軒 45坪5分
右売却相成候、本月28日入札可被差出候也。
開札は同日午後1時執行
尚家内事課

※明治33年2月17日 琉球新報

首里区字儀保751番地旧亀川盛英家屋
1.瓦屋83坪5分 内甲70坪2分5厘、乙13坪2分5厘
右資却ず望の方は御来談あれ
首里区字大中435番地
明治41年4月 尚家会計課

※明治41年4月8日 琉球新報

那覇市史 資料編第2巻上
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中山門の入札

首里旧都の遺跡中山門は柱木ことごとく朽ちそのため傾斜し居たるを昨年は支柱を成したるにより潰倒を免かるに至りしも、昨今はこの支柱もついに役にたたず、さらに屋上の瓦落下するより、いよいよ危険となり同区役所において入札に付することとなれるが、開札は明後2日正午12時なりと。
明治41.5.31 琉球新報 (1908)
那覇市史 資料編


中山門は現在も復元されていません。
こちらのサイトに写真や位置等が詳しくあります。

世界遺産で遊ぶ
http://www.geocities.jp/djptd603/isansyurizou_ato.htm

らい病患者

新聞記事にでてきたらい病患者の様子です。

那覇市場の盗み食い
当地の癩病患者は他人の飲食物を盗み喰ふに人々これを相手にすることを忌みて、大目に許し居る有様なるが、近頃癩病患者にもあらざる健全の者が無理にも米屋より、米を盗み去る者あるより、昨今の商人は大いに警戒し居れりと。
明治40.7.6 琉球新報 (1907)

本県下の癩病患者
其の筋の調査によれば、県下各警察署管下における、癩病患者数左の如し。
那覇 男43、女15
首里 男44、女24
明治40.5.7 琉球新報 (1907)
那覇市史 資料編(省略引用)


全県では672人です。
癩病患者はバクチャヤーに居住していたと思われますがこういうお目こぼしがあったわけですね。

参考:ムヌクーヤーテーソー
参考:バクチャヤー(辻)

当蔵の料理屋

首里もこのブログでは範囲外なのですが面白い記事があったので取り上げます。

当蔵の料理屋
旧藩時代より按司、親方の淵叢名門右族の輻湊地として知られたる首里区当蔵も世の移り変わるに従って、今は次第にこれらの美風もみだれんとす。ここに当蔵大通りに近年建築したる借家を借り受け新しく料理屋を開きたる那覇人某あり。酌婦には本県婦人を出しては目立ちすぎるとして鹿児島出身を両三名程雇い入れ安向の手料理にその繁昌一方ならず云々。学生の多い首里の真中で斯かる風俗紊乱の醜態は容赦できぬとあって青年有志の憤慨一方ならずとはもっとも至極の次第なり。
明治31.10.23 琉球新報 (1898)
那覇市史 資料編


那覇人が鹿児島人を雇って首里で料理屋をやってるがやりくちが気にくわんと。

明治44年の豚飼育(那覇)

其筋の調査せるところによれば、那覇区における豚の現在頭数は1706頭にて、うち病豚38頭あるよしなるが、今これを各字別に示せば次のごとしという。
西147、東76、泉崎159、久茂地120、久米35、若狭町100、牧志134、泊534、儀間101、湖城300
明治44.5.12 沖縄毎日 (1911)
那覇市史 資料編(省略編集)


泊の534頭が突出していますね。東の76頭も面積の小ささを考えればこんなものかと。
儀間と湖城は国場川の向こう側です。

堂小より嘆願(那覇)

那覇市史より沖縄毎日の記事を引用します。

大正2年3月4日発令沖縄県令第13号家屋建造物取り締まり規制に依れば、市街地又は市街地に接続地区においては家屋その他建造物に茅藁など燃質物をもって建造する事を禁止せられるが、これに対し区内久米堂小屋敷及び格子目に居住せる貧民等は大いに憂慮しわれわれの資力にては瓦葺家屋の建造はとても不可能なれば旧来の住居にて寛恕してくださるべしと堂小屋敷より30名、格子目より3名の代表者連名にて嘆願書を提出したる由
大正2.4.1 沖縄毎日 (1913)
那覇市史 資料編


たまに難しい漢字があって困るときがあります。「迚」は「とて-も」と読むそうですよ...
堂小と近辺の困窮がしのばれます。

参考:東寿寺(堂小)
参考:那覇の細民

道路沿い

カテゴリに新聞記事を追加。
文献に引用された新聞記事や直接拾った記事等をこのカテゴリにしたいと思います。

今回はみなと村のあゆみから引用します。
みなと村のあゆみは「特別行政区域 みなと村のあゆみ<資料編> -一九四七・五〜一九五〇・七-」が正式名称(?)です。自分が勝手に略してるだけですが。
資料編とついているだけあって村の組織図や人口や行政等についてのみ書かれており、またその資料も多くはなく新聞引用と年表等が本の大半を占めています。ですが資料は死亡/出産、出身地別統計、人口など暮らしぶりをしのばせる材料がたくさんあり興味深いものがあります。
ともあれそのみなと村のあゆみに抜粋されている新聞記事から引用します。

1948.11.5
自由取引 愈々実現 起業は免許制・配給物資価格は島内類似生産品に準ず

商店の指定位置
同日発行の指令38号では外国人が琉球人サービイス又は指定重要物資以外の商品を購入先とするときは 次の道路沿線の認可市場に於いてのみ行うよう規定している
•第1号線路(ママ)
那覇空港基地より恩納村のMPチェックポイント間
•第13号道路
与那原の三叉路より屋嘉のMPチェックポイント間
•第44号道路
佐敷町新里より那覇間
•第5号道路の舗装部分のみ 
宜野湾村瑞慶覧からコザ地区胡屋間
•第22号道路
北谷町桑江前から桃原付近まで
•第10号道路
屋慶名から勝連村平安名の中間付近まで


48年の那覇以外の状況はまったくわかんないのですが基地間を結ぶ大きな道路沿いで許可されたエリアが指定されたということでしょうか。
現在勝連なんて寂れまくっていますがそれでも自分が子供の頃海中道路にドライブに行く途中はかつて栄えていた雰囲気がありました。もちろんホワイトビーチの門前町だったせいもあるでしょうが早くに外人相手の商業が解禁されたことも関係あるのかななどとも考えてみたり。
結論としてはわかんないし範囲外なので調べもしません。

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