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若狭海岸の飲み屋 2

「沖縄の遊郭 -新聞資料集成-」という本がありますがそこから引用します。
わかさ民俗地図には海岸に飲み屋があるのが確認できますので下の記事での「波の上の酒屋」はそれだとおもわれます。
参考:グダグダ 若狭海岸の飲み屋
参考:グダグダ 若狭の飲み屋

波の上の酒屋
風説によれば、毎夜、よほどの好景気のようだが集まるのは無頼漢の客で、徹宵、飲んだり食ったり、しまいには乱暴を働き、隣家に非常な迷惑をかけるなどの振舞もあるようだ。
明治33年8月25日
沖縄の遊郭 -新聞資料集成- p174


若狭は職人町で気が荒いと書かれてあることがあります。また辻では(空手などの)腕試しとして通行人に喧嘩をふっかける人間がいました。
辻には芝居小屋もあり人を集めていたのですが、そこの役者たちもここに飲みに行っていたようです。
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大味知事の王様振り

歴代の沖縄県知事で評判の悪いのは奈良原知事と大味知事です。奈良原に関しては評価すべき点も見直されて来ているのですが大味知事に関してはそういう見直しがありません。
沖縄県知事一覧 - Wikipedia
大味久五郎  1914年(大正3年)6月9日 - 1916年(大正5年)4月28日
大味久五郎
※画像は沖縄県立図書館の「貴重資料デジタル書庫」にあった「沖縄県人事録」からダウンロードして切り出したものです。

琉球新報にこっぴどく叩かれている記事がありましたので罵倒部分を引用してみます。

誇大妄想の独り天狗
琉球王○琉球総督位な見識
弓張月の為朝公さへ斯程まではと思ふ位の威張り方
34貫の図体はすべて虚仮


ひどい(笑)
宮古島での行動はこう描写されてます(ところどころ意訳・現代文)。

32貫の図体はヒラリとばかりに荷車へうちのり、ものども来たれと鞭を執って、○ねき随員の人々はザブリザブリと潮をつま立て歩かせるのに、乃公ひとりちょこなんと座布団に大晏座をかき、口には葉巻を輪に吹きつつ牛に牽かせた荷車はキウ五郎キウ五郎と渡り行くこの有様は一代の奇観。一九がいたら盲の川渡り以上の振った図だと膝栗毛の材料にしてしまうところで、見る者呆れて者もいえない程なりき。大味久五郎牛に牽かれて川渡りの段はこれでウシまひにこうりまするが大味大王心の中に其昔秦の始皇帝は松に雨宿りをなしたるためこの松に大夫の位を授けたりとなむ我この牛の労に賞でて何ぞとらせたいが判任官にして遺さそうかなどと思ひしや否や牛の曰くモウこれでご免を蒙ります。
大正4年1月14日 琉球新報

うろつく癩病患者

明治40年の新聞記事にらい病患者のことがでていきたので引用しておきます。
前にもらい病患者「当地の癩病患者は他人の飲食物を盗み喰ふに人々これを相手にすることを忌みて、大目に許し居る有様なるが」という風に盗み食いを大目に見られていたという記事を引用したことがあります。

今の那覇市場 即ち野菜市場より豆腐市場の付近まで約7・8間の池で其の付近はらい病患者が多く集まり非常に不潔をきはめたるが今は全部埋めたりし後新に家屋を建設したるをもって形は壮大なる変遷を来せしもらい病患者が郡役所付近を徘徊し裸足の婦人が市場を狂ひ廻り喧嘩を惹き越し居る狂態は昔日と少しも変ることなくしかし200年前と同じである。由来記に見える。
明治40年2月14日 琉球新報


東恩名先生の筆によるものではないかと思うのですがどうでしょうか。
しかしらい病患者が歩き回り盗み食いをし、商いのおばさんたちがけんけんがくがくでもめ事を起こしているという那覇市場はいったいなんなんでしょうか(笑)。

履物卸売り

明治33年の琉球新報に履物についての広告があります。

特約一手販売人 安楽静太郎
我々製造の履物類、今般大いに改良いたし安楽静太郎に一手販売委託候につき、同人について御購入、御注文の程奉願候。敬白
若狭町履物製造人一同 長嶺但進 外11人
那覇区字東石門通、履物類卸小売商 安楽喜兵衛
明治33年2月23日 琉球新報


若狭の履物職人は東町石門通りの寄留商人に独占卸することにしたというお知らせですね。
石門通りは狭くて小さな商店が日用品を売っていたそうです。
参考:グダグダ 旧那覇の大通り名
参考:グダグダ チコンキ・蓄音機

尚順とスイカ

明治35年の琉球新報からスイカにまつわる記事をご紹介。

西洋水瓜試作好成績
過半、奈良原知事が種子を分与して、郡下各地方に試作をなしたる西洋水瓜アイスクリーム外一種の試作状況を聞くに、中頭郡にては、スイカの本場なる城間の農民二人を選定して試作を申し込みしに、この成績至て好良にして(略)将来有望の副産物なりと云ふ。
明治35年8月7日 琉球新報

尚順男爵の西洋水瓜
前号の紙上に於いては奈良原知事が県下各地方に試作せしめし西洋水瓜の成績を報道したるが、西洋水瓜は、余程当地へ適するものと見え、尚順男が小湾へ試作せる西洋水瓜も本年は殊の外に好成績の由にて、アイスクリームとコールスアリーの二種を寄贈せられしにより、其味を試みるに、アイスクリームの方はなるほど其名に背かず、(略)本県産の及ぶ所にあらず。
(略)
小湾辺は右の西洋水瓜大に流行し、本県産は次第に減少の姿なりと云ふ。
明治35年8月9日 琉球新報


尚順は明治6年(1873)年生まれで沖縄戦で没しています。
パイナップルも尚順が沖縄に導入したもので、桃原農園を設立してさまざまな試みをしていたようです。また食通で名筆でもありさまざまな逸話が多く残っている人ですね。

安謝橋開通式

浦添誌から安謝橋開通式の新聞記事です。

安謝橋開通式
去る[明治36年]八月より工事中の安謝橋は概に落成し、昨日午後1時開通式を挙行し公衆の渡橋を許したり(略)同橋は浦添間切勢理客村と真和志間切安謝村の間に在り、巾2間長10間あり、近頃公衆に便利を与えたるは此橋なり。
(略)
橋板其他の諸材は本島国頭地方の雑木を以て造れり。故に外観甚だ粗造なりといえども堅牢耐久の点に於いてはいささかも遜色無しと云うを憚らざるなり。
明治36年11月3日 琉球新報


石材・コンクリ・木材を使ったりっぱなもんです。

真和志北部を中心とした橋等の場所はこれ(真和志民俗地図参照)。安謝橋以前は船を利用していたようです。

石炭採掘許可申請

浦添誌にあった当時の新聞記事から。

石炭採掘許可申請
中頭郡浦添村字沢岻、内間、宮城、勢理客及び島尻郡真和志村字天久、安謝の74万6千坪にわたる一帯の地より石炭採掘の件、八色吉之助氏より認可申請中なりと。
大正6年4月3日 琉球新報


那覇北部から浦添の一帯には石炭が埋まってるんでしょうか。
他の島では銅、石炭、燐などが採掘されていた記録はありますが、この採掘話がどうなったかは見たことがありません。当時の沖縄は日本と台湾・南洋の中間に在る中途半端な土地で、となりに台湾のようなでかい土地があるような状況では規模が小さな採掘はどのみち採算にあわなかったと思われます。

参考:いろは楼
参考:台湾拓殖 - Wikipedia
参考:南洋拓殖 - Wikipedia

大門前埋立

新聞記事から大門前の埋立工事の様子を見てみます。

明治34年度那覇区事業概況
土木
区会の議決を経てその筋へ出願中の字東豚市場より硫黄城下に至る水面埋立願いは未だ指令相成らざるも字久米大門前に沿う水面埋立願は、34年10月19日認可せられたるを以て直に公の入札に付し、最低金額2980円にて受取人を定め、35年10月末日限り竣工を契約し、目下埋め立て工事中なり。(略)
子豚市場新築工事は公の入札に付したる最低金額175円にて請負人を定め、34年10月20日竣工したり。

明治35年3月21日 琉球新報

大門前埋立地入札
1.大門前埋立地及び松尾山内道路工事
右請負入札に付す---望みの者は契約書案仕様書、図面及び現場共御熟覧の上、来6日午前10迄に保証金相添え入札すべし。
明治35年12月1日 那覇市区役所

明治35年12月3日 琉球新報

貸地広告
1第2 大門の前の埋め地 88坪2合、(略)
1甲 明倫堂敷地内 54坪(略)
此の入札保証金各自見積料の一ヶ月分右競争入札に付し貸し付けす。望の者は入札心得書並に貸地契約書現地等熟覧の上来年1月7日午前10時迄に当所受付揖へ入札書保証金相添え差し出すべし。同時開札す。
本契約は那覇区長斎藤用之助担任す
明治35年12月25日 那覇区役所

明治36年1月1日 琉球新報

明治35年度那覇区事業概況
昨明治35年中那覇区の新事業として着手せる事業中、既成及未成中のものは前年に比すればやや増加したる傾向あり。其の中重要なる事項を挙れば
△大門の前埋立工事、同工事は昨年3月起工、同9月竣成、此坪数924坪9合6勺5才 工事費2980円
△泊尋常小学校の新築工事落成
△松山尋常小学校、目下新築工事中

明治35年1月1日 琉球新報
那覇市史 資料編第2巻上


久茂地川の河口部分はこの工事で大分狭くなった事は間違いありません。
大門前
図は「琉球の都市と村落」の「唐栄久米村とその周辺の景観推定図」(p91)を参考に作成しました。同じ本の中からこの部分について触れた箇所を引用します。

すなわち明治初年には久米の大門前には久茂地川の河口の幅が約75Mもあっていわば河口というよりは海は湾入していると言ってもいいくらいの広い水域が存在していた。ところが昭和初年には川幅は約25Mに狭まってもはや単なる川の下流部になってしまっている。
琉球の都市と村落 p83

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