忍者ブログ

グダグダ(β)

メンテナンス中/内容について一切保障できません
3/24アクセス解析再設置/不快に感じられる方はJavaScriptオフを推奨

MENU  ブログ内検索は左のMENUからできます

ENTRY NAVI

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

内地からの娼婦

「沖縄の遊郭」から引用します。

琉装淫売婦の行末
長崎県の産にて末永トラといえる淫売婦人が、情夫に欺かれ、八重山及び名護の各料理屋に酌婦と化けて密淫売を働きたる末、ついに本年那覇に来り、本県婦人の名義を借りて仲島遊郭より娼妓の鑑札をその筋に願出し、戸籍法違反のかどを以て、3円の罰金に処せられたる由は、かつて本紙にも記載したるが、その後もトラは此所各所の厄介になりてようやく露命をつなぎ居りしも、放埒に身を持ち崩したるものとて少しも辛抱できず、ついに路頭に迷う哀れかなき境界[ママ]となりしが、2、3寄留人の好意により旅費をこしらえ、昨日出航の薩摩丸より帰郷したりとぞ。
明治33年8月17日
沖縄の遊郭 -新聞資料集成- p174


沖縄に来たが地方の料理屋で売春、那覇で無鑑札の売春をして捕まったということですね。他人名義の鑑札での売春は戸籍法違反になるのか...
このへんにも疎くてわからないのですが、内地出身者が沖縄で鑑札をとることは困難だったのでしょうか。

八重山及び名護の各料理屋に酌婦と化けて密淫売を働きたる末」とありますが地方の料理屋は売春もおこなっていたところがあったようです。実際には売春宿であったところもあったのでしょう。
「沖縄の遊郭」は辻・仲島・渡地の記事だけではなく地方の記事も集めていて、密淫売の摘発や売春周辺の記事まであります。
時期的に考えるなら海外へ出る売春婦もいますし(からゆきさん - Wikipedia)、当時は国内であった大都市の台湾もあります。記事になった女性は長崎出身とのことですがWikipediaでは「長崎県島原半島・熊本県天草諸島出身の女性が多く」とされていますからそういう人だったのかもしれません。
また沖縄出身の娼婦も内地には結構な人数がいたようです。

料理屋の肴屋(サカナヤー)については以下参照。

たとえば、首里のアダニガー、糸満、与那原、馬天、泡瀬、屋慶名、普天間、嘉手納、名護、本部、塩屋、久米島、平良、石垣、沖永良部、徳之島、名瀬などの「サカナヤー(料理店を兼ねたあいまい宿)」に売られて落魄の晩年を送ることもあった。
なは・女のあしあと p128
グダグダ チージサガイ


関連:グダグダ ジュリと料理屋女
PR

若狭海岸の飲み屋 2

「沖縄の遊郭 -新聞資料集成-」という本がありますがそこから引用します。
わかさ民俗地図には海岸に飲み屋があるのが確認できますので下の記事での「波の上の酒屋」はそれだとおもわれます。
参考:グダグダ 若狭海岸の飲み屋
参考:グダグダ 若狭の飲み屋

波の上の酒屋
風説によれば、毎夜、よほどの好景気のようだが集まるのは無頼漢の客で、徹宵、飲んだり食ったり、しまいには乱暴を働き、隣家に非常な迷惑をかけるなどの振舞もあるようだ。
明治33年8月25日
沖縄の遊郭 -新聞資料集成- p174


若狭は職人町で気が荒いと書かれてあることがあります。また辻では(空手などの)腕試しとして通行人に喧嘩をふっかける人間がいました。
辻には芝居小屋もあり人を集めていたのですが、そこの役者たちもここに飲みに行っていたようです。

波之上のスケート場

Images of Okinawa after World War IIにある波之上のスケート場の写真(左)と推定した撮影位置(右)です。
撮影位置は赤矢印あたりになるかと思います。
波の上スケート場
http://digicoll.manoa.hawaii.edu/okinawa/Pages/viewtext.php?s=browse&tid=175&route=browseby.php&start=16&city=Naha&by=city#

上の写真で左手前に写っている壁は下写真で右下にある壁です。
参考:波の上プール 3
波の上プール/スケート場

最初の写真でのスケート場の向こう側の住宅(?)は現在の護国寺になるでしょうか。護国寺のあれこれに関しては調べてないのですが、71年のゼンリン地図では護国寺は現在の位置にあり、現在の旭ヶ丘公園の範囲には住宅がびっしり建っています。
波之上山護国寺 - Google マップ

【追記】コメントでこのスケート場がプールになっていたという情報をいただいたのですが、プールとして使われていたらしき写真がありました。

https://picasaweb.google.com/112682236649791042943/Okinawa196364#5526162662381341522

丸国周辺

三共デパート(新生デパート)の続きです。
前に下記アドレスの動画を参考にしました。

沖縄 大晋建設の歩み 中編
http://www.youtube.com/watch?v=6UFxgYzS65g


その動画に写った図から書出してみました。右は元にしたスクリーンショットです。


同じ動画の中から民衆百貨店の景観。


【追記】画像内で読める店舗名をテキストにしておきます。
嘉手川商店/十字屋/宮城商店/民衆百貨店/新生デパート/三共デパート/丸國マーケット(丸国、マルクニ)/那覇果物市場/大衆食堂やよい/アメリカビンゴ/ダイヤ商会/屋嘉比商店/朝日商会/沖縄商会/仲村商店/松堂商店/幸陽商事/那覇商事/びっくりそば/前原商事/照屋商事/みつや呉服店/万田商店/金城商店/信興商事

【追記】画像追加

兎ブーム

このブログの中にもいくつか戦後すぐの兎ブームに触れていますが、「高倉幸次郎追想録」の中にある船越義彰さんの文章の中にも兎に関わった思い出がありましたので抜出してみます。

私は民政府の下っ端役人で、月給が220円だった。「内務書記に任ず」という辞令をもらった。兎が私の前にあらわれたのは、知念半島に住んでいた遠い親戚のばあさまが、「兎」を3匹ほど手みやげにぶら下げて来た時に始まる。そして「近頃はこの兎が高価で売れますよ」と私の祖母に教えた。祖母としては、病弱な私の薬餌として使いたいようだったが、同じ部落に住んでいる土地のじいさまから、「せひ、兎をわけてくれ」と相応のお金を見せられた。いくらだったか、よく憶えていないが、わたしの220円の月給と対比したのであろうか、祖母は即座に兎を売り払った。その後、二回ほど、知念のばあさまのところから取り寄せて売ったが、間もなくブームは去った。那覇の方でも、おそらく、そうであったろう。
高倉幸次郎追想録 p206、207


義彰さんは戦後民政府に勤務、その後民政府と一緒に那覇に戻っていますのでこの話は那覇に戻る前の話でしょう。
兎は民間貿易開始以前の物資不足の一時期のブームだったようです。

参考:グダグダ 民政府職員の移動
参考:グダグダ みなと村資料からの数字など

高倉幸次郎

高倉コーポレーションの高倉幸次郎さんの略歴を「高倉幸次郎追想録」からまとめてみました。
本の中にも年譜はあるのですが、寄せられた文章の中(船越義彰さんのものなど)からより詳しいものになるようにしてみました。本の中の年譜とはすこし異なりますがこの辺の食い違いは原本をあたって判断して頂きたい。
文責は自分にあります。

•大正11(1922)年、首里系士族の高江洲清忠・ウシ(旧姓宜保)夫妻の次男として生まれる
※壷屋生・石垣生(年譜)の両説あり
•高江洲一家八重山に移住
•昭和4(1929)年登野城尋常小学校入学
•昭和5(1930)年那覇にひきあげる
•昭和10(1935)年久茂地尋常小学校卒業、父の親戚をたよって石垣尋常高等小高等科へ進学
•卒業後那覇へ戻り松永ペンキ店に勤める
•昭和18(1943)年徴兵され南方へ、佐世保で復員し沖縄へ戻り基地作業(大工)等従事、その後友人と下駄屋を始める
•昭和26(1951)年、貸家業・商業・不動産業開始、材木輸入事業、国際不動産株式会社
•昭和32(1957)年、T・K商事合資会社設立(後の高倉商事)
•昭和36(1961)年、アメリカン・ベンダース株式会社設立
•昭和37(1962)年、東洋音響株式会社設立(東京都新宿区)
•昭和42(1967)年、沖縄国際観光株式会社設立(大倉不動産)
•昭和47(1972)年三雅商事株式会社設立、三幸商事合資会社設立(東京在)
•平成2(1990)年2月逝去
※高倉コーポレーションはこれだけではなくすべて書いていません


学園は昭和37年、終戦後の荒廃した中で、沖縄の将来を憂い、沖縄県の経済的・政治的自立のために沖縄県の将来の担い手の育成が急務であることを痛感し、高邁な理想と見識を持つ同志の高良嘉永氏、高良郎栄氏、高良盛一氏、高良忠一氏、高良真一氏、高良文雄氏、高良徳栄氏、高倉幸次郎氏及び当時文教局諮問委員の山城篤男氏が浄財を提供して創立された。
http://senior.konan-h.ed.jp/detail.jsp?id=6958&menuid=3033&funcid=1


興南高校の設立メンバーでもあり、土地の提供も行ったようです。戦後は実家の土地(壷屋)を利用して事業を始め、土地を購入していって不動産業に発展してゆきました。
ジュークボックスとの関わりはわからないのですが、昭和32年に渡米した際にジュークボックスに触れ、それ以降関わっていったようです。

[ジュークボックスは]沖縄では米軍基地のクラブなどで利用されていた。昭和30年代になって米軍払い下げ品や、アメリカから輸入するなどで市中にも新しい時代の音楽が流れた。その先駆をつけたのが幸次郎であった。 p208

その後政治は諦め、そのころの那覇の中心部の神里原で、丸金百貨店、材木輸入事業等、沖縄の復興に努めた。
それから仲本為美を社長に、私[高倉]が専務となり「琉球バーゲン株式会社」を設立して本土の「隅田組」の下請け会社となり野菜、肉魚、日用雑貨等を納入する仕事をやった。 p243


その後高倉コーポレーションは息子さんに代が替わり、パームヒルズ(ゴルフ場)などを手がけています。パームヒルズはもともと高倉ではミカン畑として使われていました。
それと国際通りの高倉ショッピングモール(モルビー)も有名でした。

幸次郎さんは戦後沖縄の立志伝中の人ですね。

住吉海岸での密貿易

石原昌家さんの「大密貿易の時代」が改題されて「空白の沖縄社会史—戦果と密貿易の時代」となっていました。その中から住吉海岸での密貿易について抜き出します。

闇市に間近い安謝の小さな入り江(住吉海岸・現在東急ホテル北側裏手)が、密貿易品の集散所になっていることがなっていることがわかった。何席ものポンポン船が夜中に入り江に入って来たら、明け方までには海岸にヤミ物資の山が築かれる。
資力の在る「卸商」が札束を持って、船が入ってくるのを待ち受ける。船が入って来たら、リストをみて「これだけで売る」「よし!買った!」とパッと手を打ち、一人で一船分の品物を丸ごと買う。すると集荷作業が開始される。そのとき、品目ごとに仕分けされ、それぞれの山が築かれてゆく、それを品目別専門ブローカーが一山いくらで買い付ける、つづいて末端の各専門ブローカーが一山ごとに仕入れて、各地に運び出す。末端ブローカーには一山いくらで買い取る資力はないので、市場でショーユだったらショーユを売っている者同士でグループを作り、金を出し合って買い取る。
それぞれの山は、大きいので高さ3メートルくらいのピラミッド型、低いのでも2メートルくらいはある、種類は、コンブ、ミソ、ソーメン、ショーユ、カンピョウ、タクアン、アズキ、もち米、パラソル、生地などが主たるもの。たとえば、ショーユだったらキッコーマンを先頭に、ヤマサ、丸金の銘柄品。奄美大島あたりで銘柄品の樽に地元のショーユを詰め替えてにせ物も出回ったりする。タクアンなどは大樽に積み込まれて入ってきた。それらの山が30〜50個もあり、魚河岸みたいな「入札場」になっていた。
当時すでにトラックを所有している資力の在る卸商は、密貿易船が入る情報を入手すると那覇から糸満まででかけて、船一隻分の品物を押さえて、那覇まで運び込んでいた。そのころに設立した現在の卸問屋は、すべてそのような商売のしかたから出発している。すでに当時として一番大きな会社は会社部内に密貿易担当者がいて、そのための船も所有していたという証言がある。
空白の沖縄社会史—戦果と密貿易の時代/石原 昌家 p245〜247(省略と抜粋)


卸問屋の成り立ちについても触れていますが正式な民間貿易の再開までは物資は密貿易に頼るしかありませんでした。1951年頃までにできた会社のスタート当時の品物は密貿易品だったはずです。


関連:グダグダ 終戦後の安謝港

泡盛以外のブーム 2

引き続き瑞泉酒造の語り部の庵から。

このころの業界動向をふりかえってみると、昭和33(1958)年十月には、ビール工場設立の免許が下り、更に昭和36(1961)年7月サントリー系、同年12月にニッカ系ウイスキー工場が認可された。また、昭和41(1966)年十月には清酒工場の免許が下りた。このような大型工場の進出によって、酒造業界の競争はいよいよ激化し、零細な泡盛の廃業が続出するようになった。設立された大型工場のうち、ウイスキーとビールは、年々順調な伸びを示し、昭和47(1972)年度にはビールが20413キロリットル、ウイスキーは2096キロリットルを生産するまでになった。泡盛は値段が安く、少量で酔いがまわるので、飲み屋では敬遠され、ほとんど売られていなかった。
https://hs32.drive.ne.jp/zuisen.co.jp/aboutus/legend/article_33.html


ビール工場はオリオンビールですね。

アメリカ合衆国統治下の1957年5月18日に、社会経済復興には第二次産業を興さなければいけないという志から、当時から名水が湧出していた名護町で沖縄ビール株式会社として設立された。
オリオンビール - Wikipedia


ニッカは繁多川、サントリーは安謝だったはず。清酒は「泰石酒造」でしょうか。
1962年の酒造組合名簿では以下のようになっています。
 >54.泰石酒造株式会社/泰石・コーラルドライ/具志川村字多良川
泰石酒造のサイトでは以下のようになっています。

昭和27(1952)年 設立登記、酒製造免許交付
昭和28(1953)年 焼酎製造開始
昭和30(1955)年 泡盛製造開始、ウイスキー製造開始
昭和34(1959)年 リキュール製造開始
昭和42(1967)年 清酒製造開始
昭和56(1981)年 酒みりん製造販売開始
平成14(2002)年 ハーブ焼酎&泡盛製造販売開始

沖縄県うるま市字平良川90番地
http://www.taikokushuzo.com/company.html(省略と修正)


「酒連50年史」と1958年の住所録から引用します。泡盛以外のブームで触れたような乙類ではない酒を武器にしていたのでしょうか。

具志川村では、第一号の株式会社として安田繁史によって設立された。連続式蒸留機による焼酎甲類を製造販売した。そして、醸造学を学んだ安田が生み出したブレンド比率で、泡盛と焼酎甲類のブレンド酒を生み出す。
酒連50年史 p193(省略と抜粋)

泰石酒造株式会社
泰石正宗、泰石焼酎、宝泡盛、薬用アルコール、コーラルジュース、コーラルコーラ
安田繁史、座間味盛保、照屋寛敏、安田善治
住所録(1958年)



× CLOSE

ブログ内検索

アクセス解析

カレンダー

05 2025/06 07
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30

最新コメント

[08/08 なちょうらーざ]
[07/19 shimoji]
[07/19 shimoji]
[03/21 2階の店舗の娘]
[03/05 福島敏彦]

× CLOSE

Copyright © グダグダ(β) : All rights reserved

TemplateDesign by KARMA7

忍者ブログ [PR]