石原昌家さんの「大密貿易の時代」が改題されて「空白の沖縄社会史—戦果と密貿易の時代」となっていました。その中から住吉海岸での密貿易について抜き出します。
闇市に間近い安謝の小さな入り江(住吉海岸・現在東急ホテル北側裏手)が、密貿易品の集散所になっていることがなっていることがわかった。何席ものポンポン船が夜中に入り江に入って来たら、明け方までには海岸にヤミ物資の山が築かれる。
資力の在る「卸商」が札束を持って、船が入ってくるのを待ち受ける。船が入って来たら、リストをみて「これだけで売る」「よし!買った!」とパッと手を打ち、一人で一船分の品物を丸ごと買う。すると集荷作業が開始される。そのとき、品目ごとに仕分けされ、それぞれの山が築かれてゆく、それを品目別専門ブローカーが一山いくらで買い付ける、つづいて末端の各専門ブローカーが一山ごとに仕入れて、各地に運び出す。末端ブローカーには一山いくらで買い取る資力はないので、市場でショーユだったらショーユを売っている者同士でグループを作り、金を出し合って買い取る。
それぞれの山は、大きいので高さ3メートルくらいのピラミッド型、低いのでも2メートルくらいはある、種類は、コンブ、ミソ、ソーメン、ショーユ、カンピョウ、タクアン、アズキ、もち米、パラソル、生地などが主たるもの。たとえば、ショーユだったらキッコーマンを先頭に、ヤマサ、丸金の銘柄品。奄美大島あたりで銘柄品の樽に地元のショーユを詰め替えてにせ物も出回ったりする。タクアンなどは大樽に積み込まれて入ってきた。それらの山が30〜50個もあり、魚河岸みたいな「入札場」になっていた。
当時すでにトラックを所有している資力の在る卸商は、密貿易船が入る情報を入手すると那覇から糸満まででかけて、船一隻分の品物を押さえて、那覇まで運び込んでいた。そのころに設立した現在の卸問屋は、すべてそのような商売のしかたから出発している。すでに当時として一番大きな会社は会社部内に密貿易担当者がいて、そのための船も所有していたという証言がある。
空白の沖縄社会史—戦果と密貿易の時代/石原 昌家 p245〜247(省略と抜粋)卸問屋の成り立ちについても触れていますが正式な民間貿易の再開までは物資は密貿易に頼るしかありませんでした。1951年頃までにできた会社のスタート当時の品物は密貿易品だったはずです。

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