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野卑猥褻なる俗謡(明治35)

3月遊ひの下稽古か
旧暦の3月も最早十数日を余せる今日此頃多分其の下稽古ならんと推察するか那覇仲毛附近にては45日前より数十名の少女四ツ角或は空屋敷へ群集し例の野卑猥褻なる俗謡を歌ひながら朝から晩まて青筋立てて太鼓を叩き居る模様なるか中には良家の小娘等も打交り居れと89分通りは子守女の如き無教育の者にて我が輩も左程望みを置く訳にはあらされとも能く遊ひ能く働くは文明国今日の気風にて我が輩も之を咎めす却て奨励する側の一人なるか天真爛漫清浄潔白の乳臭児をして右の如く野卑猥褻なる俗謡を歌はし又不知不識の間に其学科を修了し後日如何に大胆不敵なる婬奔娘を出たすかを思へは今より寒心すへき事共にして父兄に於ても実に情けなき次第にあらすや左れは今後は高尚優美にして婦女子にふさはしき遊戯を仕組み愉快娯楽の間に覚えす知らす徳育を養成する方法を講させ度もの也
明治35年3月21日 琉球新報 沖縄県史資料編16上 p202


3月遊びの下準備で歌や太鼓で大騒ぎしているという記事ですが野卑猥褻なる俗謡ってのはどんなもんだったんでしょうか。
本番では船を貸し切って流れ舟として一日中遊んだようです。

前に取り上げた東町生まれの大湾さん(明治2年生)の3月遊びのようす。
参考:グダグダ(β) 東町の3月遊び/流れ舟 1
参考:グダグダ(β) 東町の3月遊び/流れ舟 2
参考:グダグダ(β) 東町の3月遊び/流れ舟 3
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當間マウシ山原船を差押ふ

當間モウシ(マウシ)が山原船を差し押さえたという明治45年の新聞記事です。

當間マウシ山原船を差押ふ
▽遂に裁判沙汰に上る
1代で数万の財産を積み那覇で女傑の一に算へられる区内字東1602當間マウシが自分債券保全の為債務者糸数喜次郎所有山原船を差押へたるに端なく西銘直次郎と云ふ人より差押解除の訴訟をなした其処で當間マウシは被告となりて今度那覇地方裁判所で直次郎相手に正邪を争ふこととなつたが今当事者間の主張する所を聞くに原告那覇区字垣花新前原860西銘直次郎の云ふには今度當間マウシが差押へをした琉球山原船11反船(価格750円)は原告直次郎の所有である當間マウシは島尻郡知念村字久高80糸数喜次郎に債権ありて糸数が債務を怠りたるを以て原告所有船を差押へたのである。(中略)昨日は松田宮崎野上の3判事佐伯書記を随へて風月楼下の碇泊山原船に赴き23の証人調べをなした口頭弁論は来る22日午前9時
明治45年4月20日 琉球新報
---
當間マウシ勝訴
當間マウシ対西銘直次郎民事事件は昨日地方裁判所に於て判決言渡しあり証人糸数喜次郎は當間に不利益の証言をなしたるにも拘らず審理の結果は被告當間マウシの勝訴に帰したり
明治45年4月30日 琉球新報


引用元は「沖縄県史資料編16 下」(p449、451)です。
新聞にも「那覇で女傑の一に算へられる」と書かれるくらいですから有名だったんでしょうね。

昭和初期の繁多川の農業

「繁多川100周年記念誌 繁多川」から野菜の栽培について。

1936(昭和14)年の蔬菜指導園の成績を見ると真和志村の繁多川出荷組合ではトマト6反とサヤマメ8反とキャベツ8反が栽培されていて収量をあげている。繁多川出荷組合は1933(昭和8)年8月1日に15名の組合員で金城幸仁さんを組合長に設立されている。場所はタバコ乾燥場の近くで、出荷品目はキャベツ、トマト、キュウリ、サヤマメで、本土各県に出荷していたという。トマトの出荷の際には痛まないように緩衝剤として水苔(マーイーグヮー)が使われていた。水苔は近くの山で取ってきていた。
また、天久、安謝と繁多川は百合根(てっぽう百合)が有名で、当時外国へも輸出していたという(真和志市誌)。テッポウユリは沖縄原産の百合で、「白百合」として世界に広がったという。その名残として、戦後も各家庭の庭に球根が残っていて花を咲かせていたという。
「繁多川100周年記念誌 繁多川」 p115(抜粋と編集)


昭和にはトマトが栽培されて輸出されていたんですね。
そのほか蔬菜栽培についても興味深い箇所があるので引用します。

沖縄での蔬菜園芸の研究は1924(大正13)年に沖縄県農事試験場園芸部の創設に始まるという。その成果から1940(昭和15)年までにキャベツを筆頭にトマト、インゲン、人参、ナス、キュウリなど多くの野菜が本土出荷され、1931(昭和6)年度より1939(昭和14)年度までの9年間で述べ282ヶ所の蔬菜指導園が設置された。
「繁多川100周年記念誌 繁多川」 p115(抜粋と編集)

反布商の奸手段

反布商の奸手段
チョン曲或は手に入墨あるを標榜して久留米絣其他内地産廉価の反布を以て真個の琉球産出の反布の如く装ひて当地新米の他府県人を欺く久米アヤー達の奸手段を聞くに彼等は内地産出の反布を23円の廉価を以て買取り巧みに琉球産の如く商標あるをなして新米の客を欺く23円の価値ある反布をして78円乃至10円程に売却をなし居ると云ふことなるが斯くの如き絶えざる間は琉球産反布の信用漸次其の真価を失ふのみにして心あるものの私かに嘆じ居る次第なるが右に就き某氏の語る所によれば織物同業組合の定款中不正品販売者に何等制裁の設けなきは是等奸商を跋扈せしめし所似にして他の織物業者が1反2銭の検査手数料を出して受検をなし琉球真個の産出なるを証明せしむといえども新来の客が予め同業組合の如き組織あるを知らざるに於ては只アヤー連の奸手段に巻込まれるのみ組合組織が少しも琉球反布の信用を保持し行く目的に適はざるにあらずや云々
明治43年3月26日 琉球新報 沖縄県史資料編5 p392(抜粋と編集)


「沖縄県史資料編5 染織関係近代新聞資料」は染織関係の記事が集められています。
上の引用は久米のおばさんたちが内地産の安い布を沖縄産だと偽って内地人を騙しているという記事です。他には品質向上のための組合設立や工芸学校の設立記事や検査を通さない密売の摘発&罰金などの記事があり産業としててこ入れを図ってるのがうかがえます。なのにおばさんたちがしょうもない詐欺をしていたんではたまらんかったんでしょう(笑)。
他には台湾でも同様のことをやっていたようです。

西武門万染物屋/喜屋武三郎

西武門万染物洗張屋の儀諸君の御贔屓に因り年々盛大に趣店丈にては狭隘なるを感じ山城病院並の内屋に移転致し愈々手広く営業可仕候染具等も態々西京より取りせ殊にちりめんの色揚げ等は改良を加へ万事諸君の御便利を計り職工を集め仕立物迄致候間倍旧御引立の程奉願候也
西武門万染物屋 喜屋武三郎
仕立入元石門通りより移転す 名城政信
明治44年3月19日 琉球新報 沖縄県史資料編5 p435(抜粋と編集)


染物屋さんの移転広告です。
石門通りから西武門の山城医院そばに引っ越したというおしらせですね。

産業の琉球(大正2)

産業の琉球(二)
◎其の他蔬菜類に蘿萄、青芋、冬瓜、南瓜、牛蒡、胡蘿萄、漬菜、胡瓜、西瓜、葱、蕪青、越瓜、茄子、甘藍、薑等あり冬瓜は琉球名物の一にて甘藍は地味に適し繁殖の兆あり、工芸作物に芭蕉苧、藺、実棉、苧麻等あり、藺は琉球筵の材料産額3万5千円、嗜好作物には煙草、茶あり、花草類に花百合あり、米国に輸出せらる清香甚だ愛すべし、果樹類にはバナナ、蜜柑、桃、梨あり、概して蔬菜は乏しき方にて果実も亜熱帯たるに拘はらず其の種類に乏し、味亦多く美ならざるものの如し。
大正3年5月9日 沖縄毎日 沖縄県史資料編5 p552 (抜粋と編集)


百合根についてはちゃんと調べてないのですが、この記事だと花としての輸出のように読めます。アメリカへの輸出らしいですから花のままでは無理なので球根で輸出?
とりあえずメモ代わりとして記録しておきます。

よくわからないのは蘿萄(大根?)、青芋(里芋?)、胡蘿萄(薬用人参?)、漬菜(からし菜/チキナー?)。
甘藍はキャベツ、薑はショウガ、桃は山桃のこと?

【追記】「沖縄志略/伊地知 貞馨」では胡蘿萄は「俗ニ黄大根ト云フ」となっていますが島ニンジンのことでしょうか。
画像は貴重資料デジタル書庫のものを切り出して加工しました。

http://archive.library.pref.okinawa.jp/?type=book&articleId=50050

作戦道路(繁多川)

ユクダキビラ
図は作戦道路の完成部分です。
「繁多川100周年記念誌 繁多川」から引用します。

作戦道路
沖縄戦時の日本軍の計画で建設された道路。ユクイダキ付近からクシミチーを横切り、ウフカー横を経て現在の県営松川団地方面に至る計画であったが、現在のJAおきなわ繁多川支店前まで開通しあとは未完成となった。
p52
一方、繁多川では作戦道路の道路工事が進められていた。物資を運ぶトラックなどが走ることのできる道路を作るというもので、作戦道路沿いには野戦用倉庫の防空壕が作られていた(現県営松川団地近く)。(略)[1945年]1月撮影の[米軍撮影]写真ではそのコースがうっすらとわかる程度だが、4月撮影の写真では道路の整備が進み、土が掘り返され白くはっきりと確認できるようになっている。
p128、129
---
この道路工事には地元の人はほとんど参加しておらず、繁多川以外から人が来て作業を行っていた。真地側のユクイダキあたりは石灰岩が多く難工事であったという。そのあたりから識名宮の前あたりまではりっぱな道路が地図でも確認できる。すでに野戦用倉庫あたりの道路もできていたようだが、その間を結ぶ道は未完成となった。予定ではウフカーの脇から,現サンエーの駐車場を通り、松川方面に抜ける道となるはずだった。
p130
「繁多川100周年記念誌 繁多川」 (抜粋と編集)



図は「戦時体制下の繁多川(1945年)」(p139)を参考に作成しました。

イシジャミチ(石田道)

「繁多川100周年記念誌 繁多川」(p112)を参考に図を作成。
イシジャミチとヌージャミチは昭和に入ってからの道です。作戦道路は沖縄戦直前に作られています。


イシジャミチ(石田道)
イシジャミチは現在のバス通りで沖縄戦前・戦後にわたって真和志小学校への通学路、那覇の街への往来や運搬路として大変重要な道となっている。開通は、昭和に入ってからで、昭和10年代に開通したヌージャミチより以前に開通していたと言われている。
「繁多川100周年記念誌 繁多川」 p67(抜粋と編集)


同誌別箇所からですが繁多川からは真和志小学校(上間で明13開校、明30に寄宮)にイシジャミチ〜大石橋を通って通学していたようです。

交通機関の発達に伴って、沖縄県内では県道や組合道路など主要道路の整備が行われ、真和志村でも村道の整備が行われた。『真和志市誌』によると首里・真和志の道路では首里 - 一日橋間の道路や首里 - 真玉橋間の道路(真珠道)も整備された。 1935(昭和10)年に首里バスが設立され、市内にバスが運行された。繁多川の近くでは大道の停留所があり、昭和10年代にヌージャミチが開通すると、この道を通って大道まで歩いてバスを利用したという。また軽便鉄道では安里駅が利用された。
「繁多川100周年記念誌 繁多川」 p112(抜粋と編集)


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