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ぶさー

ぶさーというのは武士のことです。

本部サールーの武勇伝をきいたことがありますか。サールーの雷名は琉球の天下に響きわたり、その武術のすごさ、泣く子も黙るほどの威力を発揮したそうです。彼の檜舞台は遊里の辻でした。作用、そのころの辻は絃歌さんざめく紅燈の巷でありながら、反面、有名無名の空手の達人が決戦を挑み、挑まれる戦場でもありました。
たとえば泉崎の仁王が泊のクルーに一撃の下にノック・アオトされた、とか。垣花のガッパイ三郎が、東のヨーゲー太郎に股間をけられて即死したとか、凄惨身の毛もよだつ死闘が、遊里を中心にしてつづけられていたようです。
(略)このおじいさん、空手の心得があるのか、インタビューするために、「サリ!(もし)」と声をかけると、はっと全身を硬直させて身構えるのです。話しているうちに、サールーのような英雄豪傑でなかったことだけはよくわかりましたが、じいさんがサールー時代の雰囲気を身につけて辻の暗がりで闇討ちに会ったようなショックを受けると、本能的にハッと身構えるものだということがわかりました。
どこそこの武士、そのころの空手の達人のことを武士と呼んでいましたが、その武士がどこの武士にやられたというニュースは電光のような速さで、全琉の津々浦々に人の口から口へと伝えられたものだそうです。
続・沖縄千一夜/徳田安週 p1、2(省略抜粋)


この本部サールーは空手の有名人です。
参考:本部朝基 - Wikipedia
「ぶさー松茂良」など高名なぶさーも何人もいます。

ぶさーは荒くれ者の監督者を頼まれたりただの暴れ者とは違う存在だったようです。本部サールーもそういったところの監督を頼まれたりしていたようです。
「続・沖縄千一夜」から垣花落平を仕切るぶさーが書かれてある箇所を引用します。

那覇市の需要を満たすばかりでなく、遠く慶良間、粟国、渡名喜、久米島の離島からも水を買う船がやってきたそうです。そこでこの泉の管理はもっぱら腕力の強い、つまり空手の達人である「武士」たちがにぎっていました。せっかく列を作って順番を待っているのに割り込みをやる無法者が出た場合、「武士」の実力がモノをいい「不埒なむん!」と拳骨を食わされたそうです。
続・沖縄千一夜/徳田安週 p55


「かきだめし/掛け試し」のこともWikipediaの本部朝基の項目にありますが、野試合・ストリートファイトのことです。昔は師匠と弟子の関係が昔の修行に近く、あまり試合などが望めなかった状況で他の人間と手合わせをする機会を狙ったわけです。
内間誌にも力自慢の農夫が闇で試合を挑まれて闘ったあとに「わんや本部サールーやしが」と言われて唖然とした証言があります。しかしサールーは本部御殿の王族であるわけで平民は知らされて唖然としたでしょうね(笑)。これなどもかきだめしの一種でしょう。
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ウィーマチグヮー(上の市場)

初期の市場であるウィーマチグヮーです。

[1947年]11月下旬頃には、現在の開南バス停付近から中央劇場通りにかけて、物々交換の場として自然発生的に市場のようなものができていた。ヤミ市の草分けである。付近は高台になっていたため、ウィーマチグヮー(上の市場)と呼ばれた。
沖縄・国際通り物語 p65


開南バス停から中央劇場(松尾公園)までがウィーマチグヮーであったわけです。中央劇場は仲井真元楷さんが建設したものです。
別の本から引用します。

旧市街は未開放のため、46年秋冬の本土引き上げ那覇人の一部は、開南バス停から下り坂の道路両側にテントをあてがわれ、約80人が入居。井戸がなく、松尾や汪樋川へ汲みに行った。
戦後の沖縄世相史
グダグダ 新栄通りのなりたち


ウィーマチグヮーは道路を混雑させ交通の邪魔になったため強制的に排除されます。新栄通りはウィーマチグヮーから移って来た人達だったのかもしれません。49年には開南から現グランドオリオン敷地へ市役所が移転します。

仲井真元楷は47年3月、松尾の高台に那覇最初の劇場を建てた。
48年、新栄通り会長となる。当初はゲタ・線香・野菜をほそぼそと売っていた。50年12月の新聞には「新栄通り 仲井真書店」とある。
公設市場に入店できなかったはみだし組は市場路上の売り場を追われ、市場通り南や、えびす通り、丸国マーケット前、今のみつや書店前の空地で、地べたに野菜を広げ、カゴに鶏やウサギを入れ、板箱の上に手作りの簡単服を並べて売っていた戦争未亡人たち。
戦後の沖縄世相史
グダグダ 新栄通りのなりたち


開南にあった那覇市役所は牧志町の通称クロンボー屋敷跡(現在のグランドオリオン付近)にコンセットの新庁舎を建設、1949(昭和24)年4月に移転した。
沖縄・国際通り物語 p65


通称クロンボー屋敷というのは黒人部隊がいたためです。

久高将正と大城鎌吉の土地購入

大城[鎌吉]に話を持って来たのは、美栄橋で自宅が隣同士だった材木商の久高将正である。土地の所有者は、沖縄電機[ママ]株式会社に勤務するエンジニアの高良嘉永だった。高良[嘉永]は1907(明治40)年牧志で生まれた。国際通りの北側で、沖縄三越、那覇タワー、マキシー、那覇セントラルホテルなどが立ち並ぶ辺りである。高良家は牧志や安里、前島に2町歩(約2万㎡)の土地を所有していた。
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現在の平和通り付近に土地ブローカーが居たので、その人に交渉を任せた。二人の買い手がついた。それが、久高と大城である。1943(昭和18)年のことだった。
沖縄・国際通り物語 p20〜23(抜粋と編集)


牧志に土地を所有していた高良嘉永さんはブローカーを通して土地を売却、久高将正さんと大城鎌吉さんがその土地を購入したということです。
その土地が三越横の久高材木店と三越の土地だというんですから運命というのはわかりません。
むつみ橋付近図

久高さんは久高材木店社長です。

久高将正
1888(明治21)年、東村生。1922(大正12)年那覇市美栄橋町に薪炭木材店をはじめ、以来木材業一筋に生きる。日支事変、大東亜戦争と相次ぐ戦火を経て1949年には久高木材合資会社を設立し社長に就任する。
現代沖縄三千人より抜粋


高良嘉永さんは興南高校がらみで名前が出て来ました。

学園は昭和37年、終戦後の荒廃した中で、沖縄の将来を憂い、沖縄県の経済的・政治的自立のために沖縄県の将来の担い手の育成が急務であることを痛感し、高邁な理想と見識を持つ同志の高良嘉永氏、高良郎栄氏、高良盛一氏、高良忠一氏、高良真一氏、高良文雄氏、高良徳栄氏、高倉幸次郎氏及び当時文教局諮問委員の山城篤男氏が浄財を提供して創立された。
http://senior.konan-h.ed.jp/detail.jsp?id=6958&menuid=3033&funcid=1


大城鎌吉さんは沖縄経済界の大物ですので省略します。

製瓦業設営隊

復興の為の第一陣は壺屋・牧志でした。


先遣隊の那覇入りから5日後の[1945年]11月15日。今度は瓦製造と住宅を建てる目的で「製瓦業設営隊」が組織されて、総勢136人が那覇に入った。
設営隊の隊長は大城鎌吉だった。大城は1897(明治30)年、大宜味村謝名城産まれ。23歳の時に「大城組」を興し、住宅建築と瓦製造で成功した。
疎開先の故郷大宜味で終戦を迎えた大城に対して、米軍の方から瓦製造の依頼があった。設営隊が那覇入りする5日前、大城は那覇にやって来た。大城組の瓦工場は、現在の沖縄三越、那覇タワー付近にあった。
沖縄・国際通り物語 p10、11(省略と抜粋)


大城鎌吉さんは戦前から牧志で瓦を造るのですが、牧志はこういう風に説明される場所であったようです。

牧志は現在もそうだが、国際通りから十貫瀬に抜ける道は急勾配になっている。当時は、傾斜地を利用した登り窯が数カ所にあり、瓦屋れんが造りが盛んだった。壺屋の日常雑記の窯業に対して、牧志は瓦専門の窯業であった。現在の沖縄三越の場所に土地を買った大城も、そこで瓦工場を始めた。
沖縄・国際通り物語 p18、20(省略と抜粋)


この「急傾斜で登り窯のある道」はグランドオリオンから十貫瀬に抜ける道のことでしょう。那覇民俗地図では牧志には瓦焼釜の記号がいくつかあり、「戦前の牧志町民俗地図」ではレンガ製造場、カワラ製造場、レンガ・瓦焼釜が部落内にいくつかあります。
最初の写真は少なくとも10・10空襲以降の撮影で、ガーブ川沿いの建築物からすると1945年末の那覇入り以降の可能性もあります。

沖縄・国際通り物語

「沖縄・国際通り物語」という本をご紹介。
作者は大濱聡さんというテレビ畑の方のようで、キーパーソンへのインタビューや資料を駆使して書かれた傑作です。
国際通りだけではなくその周辺の商業地まで含めて書かれています。

1998年発行ですが、本のあちこちに鬼籍に入られたという記述があり、10年以上前の発行時でそうなら今現在当事者に聞くということは不可能なんだなとあらためて実感。しかしよく記録として残してくれたと思います。
このブログで登場する人達もあちらこちらで登場。

発行は地元出版社のゆい出版というところのようです。

【追記】球陽堂についてこの本を参考にしてまとめました。

当間重民の酒造業 2

当間重民の酒造業の続きです。奥様の當間静子(旧姓仲村渠)さんの証言です。

そのうち昭和10年ごろでしたか、酒屋の人から屋嘉のおばあさんに、重民に酒屋をさせなさいという話が持ち上がったようです。重民がどうしようか迷っていると、税務署に勤めている友人が、酒屋はまだ無学なものばかりで、さらに一段と発展させる為には、君のような人が必要だと勧められました。ちょうど垣花の島袋酒造所が売りに出ていたのです。でも、造り酒屋の権利金といったら大変な額でしょう。そう、あの当時の4万円といったかしら。とにかく大金でしたが、あの屋嘉のおばあさんが出してくれるというのです。
でもそのお金はもらったのではないですよ。酒屋を始めたら、おばあさんがやっている模合に入って毎月支払うのです。毎月その支払いに追われて大変でした。それと税金でしょう。
お酒造りは、従業員が3人に、麹をたてる人、杜氏というのですか、その4人で、みんな首里の男の人でした。重民は監督で、酒造組合に通っていました。私は手伝いで、仕事場と住まいを行ったり来たりして一日中働きました。38度の熱を出しても休めなかったこともあります。従業員の食事のために、一人だけおばあさんを頼んでありましたが、私もとにかくよく働きました。儲けはすぐ屋嘉のおばあさんのところにいくだけなのにね。
米を洗って、麹をたてて、そのたびに山のような米を広げたり集めたりするのです。うちの麹は評判がよくて、別の酒屋からもよくもらいに来ました。その酒造所は順調だったのですが、それもあの10・10空襲で焼けてしまい、あとは軍用地に取られ、権利を人に売ってしまいました。
なは女性史証言集/當間静子 p33、34(省略と抜粋)


やはり首里系の職人がやっていたわけですね。

以下余談。
重民と静子さんは親戚同士での許嫁のような感じで結婚したようで、重民の父の重鎮は静子さんの叔母さんに「重民はタンチャーだからシーちゃんみたいにおとなしい娘にきてもらいたいな」と言っていたそうです。重民顔に似合わずタンチャーだったのか。
また重民は3月(昭和20年?)に招集され球部隊で少尉をしていたそうです。

【追記】
引用文中にでてくる「屋嘉のおばあさん」ですが、昭和12年の那覇長者番付に名前の見える貸金業の屋嘉マカトさんがそうではないかと思いつきました。ですが確証はありません。

20707/247476/(貸金)屋嘉マカト
那覇長者番付(S12)/沖縄日報 1937(昭和12)年7月9日


参考:グダグダ(β) 那覇長者番付(S12) 2

マルゲン酒造合資会社

表の比較からマルゲン酒造合資会社です。
旧住所での壺屋の番地は下の図のようにこうなっています(壺屋○○○)。

マルゲン番地はこうなっています。
親泊元信/壷屋町277番地[那覇市3区12班/親泊酒造工場][10.マルゲン酒造合資会社/(元)泡盛/那覇市壺屋町]
ここはややこしいです。那覇3区の酒造所?で推定した那覇3区12・14組が下の図です。参考にしたのは当時の地図ですが手書きのアバウトなものなのでよくわからない部分があります。
那覇3区12・14組
12組は真和志支所の斜め向かい、あけぼの劇場後方だと考えられます。
昭和の番地入り地図では最初の図のようになっていますが、壺屋と大道の境界線は道をまたいでいます。「壷屋町277番地」は現在の交番付近、その向い側が「277-1」になっています。


沖縄主要地主要商工年鑑の52年版に「親泊酒造工場」がありました(親泊酒造工場・第二大城酒造所)。
277-1で正解のようです。

三原1丁目周辺の旧道

番地入り地図を参考に真和志民俗地図に記載されている道を描いてみました。真和志民俗地図は戦前を想定して作られています。



次に番地入り地図に書かれている道をそのまま描いてみました。昔のものなので現在とは違う道もありますが新しい道も見られますので現在への過渡期といったところでしょうか。特に壷屋郵便局後方の住宅地は全然違いますが敷地などに昔の道筋を見ることができます。


旧道はひめゆり通り(鉄道跡)ができる前からあるはずなので、バイパスを挟んで道が対応しています。

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