当間重民の酒造業の続きです。奥様の當間静子(旧姓仲村渠)さんの証言です。
そのうち昭和10年ごろでしたか、酒屋の人から屋嘉のおばあさんに、重民に酒屋をさせなさいという話が持ち上がったようです。重民がどうしようか迷っていると、税務署に勤めている友人が、酒屋はまだ無学なものばかりで、さらに一段と発展させる為には、君のような人が必要だと勧められました。ちょうど垣花の島袋酒造所が売りに出ていたのです。でも、造り酒屋の権利金といったら大変な額でしょう。そう、あの当時の4万円といったかしら。とにかく大金でしたが、あの屋嘉のおばあさんが出してくれるというのです。
でもそのお金はもらったのではないですよ。酒屋を始めたら、おばあさんがやっている模合に入って毎月支払うのです。毎月その支払いに追われて大変でした。それと税金でしょう。
お酒造りは、従業員が3人に、麹をたてる人、杜氏というのですか、その4人で、みんな首里の男の人でした。重民は監督で、酒造組合に通っていました。私は手伝いで、仕事場と住まいを行ったり来たりして一日中働きました。38度の熱を出しても休めなかったこともあります。従業員の食事のために、一人だけおばあさんを頼んでありましたが、私もとにかくよく働きました。儲けはすぐ屋嘉のおばあさんのところにいくだけなのにね。
米を洗って、麹をたてて、そのたびに山のような米を広げたり集めたりするのです。うちの麹は評判がよくて、別の酒屋からもよくもらいに来ました。その酒造所は順調だったのですが、それもあの10・10空襲で焼けてしまい、あとは軍用地に取られ、権利を人に売ってしまいました。
なは女性史証言集/當間静子 p33、34(省略と抜粋)やはり首里系の職人がやっていたわけですね。
以下余談。
重民と静子さんは親戚同士での許嫁のような感じで結婚したようで、重民の父の重鎮は静子さんの叔母さんに「重民はタンチャーだからシーちゃんみたいにおとなしい娘にきてもらいたいな」と言っていたそうです。重民顔に似合わずタンチャーだったのか。
また重民は3月(昭和20年?)に招集され球部隊で少尉をしていたそうです。
【追記】
引用文中にでてくる「屋嘉のおばあさん」ですが、昭和12年の那覇長者番付に名前の見える貸金業の屋嘉マカトさんがそうではないかと思いつきました。ですが確証はありません。
20707/247476/(貸金)屋嘉マカト
那覇長者番付(S12)/沖縄日報 1937(昭和12)年7月9日参考:
グダグダ(β) 那覇長者番付(S12) 2PR