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土橋幸次郎

「大典記念沖縄人事興信録」(1929)から土橋幸次郎の項を抜粋します。

土橋幸次郎
明治26年4月23日生
原籍:和歌山市岡袋町1
寄留:那覇市通堂町2ノ30
職業:海産物、貝釦製造販売業
大正2(1913)年始めて来県児玉商店に入る
同5年3月より独立
同7年通堂町に於て海産物商店を開業す
同15年市内西新町2丁目に於て貝釦製造販売業を営み現在に及ぶ
目下本県に於て貝釦製造所は只この一ヶ所あるのみ原料は多く栄螺貝であるが相当大仕掛けの機械で盛に製造し本県男女職工多数使用して居る
大典記念沖縄人事興信録(編集)


貝ボタン製造業ですね。
大正15(1926)年から発刊当時の昭和4(1929)年までは貝ボタン製造工場があったということです。
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並里俊男

「大典記念沖縄人事興信録」(1929)から抜粋します。

並里俊男
明治24年1月15日生 原籍:沖縄県国頭郡伊江村字東江上
寄留:那覇市松山町1ノ18
職業:旅館経営(松尾旅館)
幼にして父を失い母の手一つによって生長したのである。郷里の小学校を卒えた許りであるが機才に富める氏は郷里に○○しているを好まず他日必ず雄飛しようとの志は幼少の頃よりあった。当時郷村で寄留商人が商店を開いて莫大の暴利を占めているのを看破した氏は郷民を救い一は商業をもって世に立たんと決し、先ず雑貨を卸して字東江上に開店し、其の薄利のモットーは果たして郷民に歓迎せられめきめき繁盛した。其の為同業者一味からの嫉妬反目を受けたこともある。それにも不拘12年○忍事業を続けていたが、忽ち雑貨商を畳んで那覇に出で、各種の商状を観察研究した。此の間下泉町の富豪原國老媼に雇用され、其繁雑な財政を処理して同媼の信用を得た。
数年前より今の地を選んで開業したのであるが、水もよく空気もよし諸官衙各学校に近いというので旅客大いにふえ、特に今春更に当時増築して業務を拡張し日に増し繁盛している。
※○は不明文字
大典記念沖縄人事興信録 p340、341(抜粋と編集、現代語直し)



下泉の原國(原国)媼は具体的に誰であるのかはわかりませんが、下泉の原國という名前は長者番付などで見ることが出来ます。
並里さんは1929(昭和4)年に数年前より今の地を選んで開業ということなので開業は大正の末ごろ、松山1丁目は戦前だと西武門交差点の裁判所側になります。
旧那覇市街西側

繁多川の遺念火

「繁多川再発見ガイドマップ はんたがわさんぽ」には古老から聞いたとされる遺念火(イニンビー)が通った道の図があります。
その一部分を描き出してみました。


シチナンダビラ(識名坂)の遺念火は、古老たちの話によると、一つは金城橋からシチナンダビラを上がって行き、一つはシチナンダビラを下って来て、チョンチョンガー付近で出会い、そこから2つになり、そしてウーエークーエー(追ったり追われたり)しながらシチナンダビラを上がって行く。
メーミチー(前道)を通らずスージグヮーに入って行く、童夢幼児園前からンニフスー(稲干)に出た遺念火は回し郵便局の東側にあった細い道に入り、インチュ毛(石田中グラウンド南方の小高い丘)に上がり、シードゥ(勢頭)を経て真珠道に出て、識名、上間を抜け、真玉橋の方へ向かったという。
「繁多川再発見ガイドマップ はんたがわさんぽ」 p28


図中の青のポインタがンニフスー、緑がインチュ毛です。具体的にどこのスージを通ったかということまでわかるのは面白いですね。
図の右上でシチナンダビラ(識名坂)が切れてしまってますが、チョンチョンガーは図では切れてしまっている坂の途中にあるようです。図の点線部分は廃道です。

チョンチョンガー跡
シチナンダビラ(識名坂)の途中にあり、『球陽』には「真川」(マガー)と記載されている緯線。山側の土手からチョンチョンと水が滴り落ちる様子からこの名がついたといわれている。豆腐造りに利用されていたが、戦後の宅地造成により井泉は消失した。
「繁多川再発見ガイドマップ はんたがわさんぽ」 p6


本には塞がれてしまった井戸の写真がありますので現存はしていると思われます。

ユクイダキビラ(繁多川)

「繁多川100周年記念誌 繁多川」にユクイダキビラが書かれていたので、参考にして図を作成しました(参照:107p)。
ユクダキビラ
「ビラ」は坂のことで、ここは繁多川部落から識名園方面に行く途中の丘になっています。ちょうど現交差点あたりが一番高くなっていて「ユクイダキ」、ユクイダキの坂だから「ユクイダキビラ」で、もとは石畳道であったようですが戦後の墓建設ブームのときに破壊されてしまったようです。

「ユクイダキ」の説明につけられた写真では上のストリートビュー(http://goo.gl/maps/jFhdb)でも確認できる交差点の角から入って行く道が旧道とされています。
作戦道路は沖縄戦時の軍の計画によって作られたようです。ユクイダキから旧道を横切り現松川団地あたりまでの計画だったようですが図の範囲までの開通に留まったようです。未完成区域は現在の道とは重なりません。

大和だび(日本式葬式)

他府県人の葬式は、1882(明治15)年ごろ古賀辰四郎の先妻(善次氏母)が死亡した際日本式葬式(大和だび)が行われた。
当時他府県人の墓地は若狭町(西武門前山城産婦人科医院裏側)洪済寺境内に定められ、1885(明治18)年真和志村楚辺原の丘に寄留人の墓地として新たに制定されるまで、この若狭町の直堀り墓地に埋葬されたが、楚辺原(県立二中、現那覇高校の北側丘)に墓地が移され、俗に大和人墓と呼ばれた。
明治の終わりごろ、那覇の東町に葬儀会社が操業し、造花の蓮花や造花の花輪が葬列に並ぶようになり、他府県人の葬列は華やかであり「大和だび(日本式葬式)」といった。
那覇市史 通史編2 p236


若狭の山城医院は西武門のところです。

那覇・真和志民俗地図のどちらにも二中後方に大和人墓(地)はあります。
この大和墓は戦争中の写真が残っています。

城岳攻撃(35高地) (那覇市松尾2丁目)
http://www.okinawa-senjoh.com/hill35.htm


大和荼毘の話に戻ると那覇市史には沖縄県人の変化にも触れられています。日本葬式に変わっていったというのは念仏者(ニンブチャー)が消えていったということでしょうね。

葬儀社が那覇で店開きをしてからは沖縄県人の過程でも駐留以上は身分相応に葬儀会社に依頼して和沖折衷の葬儀をおこなうようになり、大正の初期からは殆ど葬儀会社に依頼した。
---
大正中期までは先頭に芭蕉布の四流旗一対像かの蓮花一対、その後に僧侶、白木位牌を捧侍する喪主、親戚の男、一般会葬者、男の列のつぎに天蓋(龍頭)旗持ち、龕(棺を乗せる輿)を四人の人夫が担ぐ。旧藩時代は村の平民の若者が担いだが、大正以降は葬儀会社から人夫が派遣された。
---
大正初期から、首里・那覇に葬儀会社が増えたので次第に日本葬式に変わっていった。
那覇市史 通史編2 p236(省略と抜粋)


参考:グダグダ(β) 大和葬儀社(内地式葬儀)
参考:グダグダ(β) 葬儀社

神村酒造跡

繁多川自治会が発行した「繁多川再発見ガイドマップ はんたがわさんぽ」に「はんたがわさんぽMAP」というA3の二枚分くらいの大きさの地図がついています。
webにあった図の画像です。

また細部は違いますがweb上で閲覧できる繁多川の史跡マップもあります。

わたしたちの那覇市-総合学習
http://www.nahaken-okn.ed.jp/watashi/sougo/3mukashi/index.html



「はんたがわさんぽMAP」に「メーミチーに残る石垣跡(神村酒造跡)」が紹介されています。
その場所のストリートビューが下記アドレスです。
神村酒造跡 - http://g.co/maps/r7vh
メーミチーに残る石垣跡(神村酒造跡)
識名宮下のウフカーの側の道を入って行くと道がカーブする内側にボージガーがあり、そこを過ぎて左手が神村酒造跡のようです。
繁多川は自治会がしっかり活動しているようで「はんたがわさんぽMAP」に連動した案内板なども完備されています。

繁多川文化財案内板コレクション | 沖縄の風景
http://coralway.jugem.jp/?eid=837


「はんたがわさんぽ」での紹介文を引用しておきます。

メーミチー沿いの仲ほどにある明治15年創業の神村酒造発祥の地。沖縄戦中に繁多川住民が避難した壕での指導的役割を担った壕長・新田宗政氏宅があった。戦後、壊れた建物の一部が残っていたが、現在は石垣の一部が残るのみである。
はんたがわさんぽ p7


「はんたがわさんぽ」は32ページの小さな本(ブックレット?)ですが、整理されていて見やすく編集も良いと思います。

赤司精酒醸造所

この項目は不確かで結論も無いのでご注意ください。

1917(大正6)年発行の「沖縄県写真帖」という本に「赤司精酒醸造所」という写真があります。
赤司精酒醸造所
建物の背後に丘、手前には線路が見えます。
高解像度の画像は下記アドレスへ。
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=14

戦前の鉄道古波蔵駅そばにはアルコール工場がありました。古波蔵交差点近くのポインタが古波蔵駅跡です。
真和志民俗地図では駅北側は「台南清酒工場」となっています。
下記引用によると糖蜜を運び込んでいたということですから伝統的製法の酒造ではありません。
古波蔵停車場
大正11年3月嘉手納線開業の際分岐駅として設置され駅北側にアルコール工場があり、嘉手納や高嶺から糖蜜が運ばれていた。古波蔵を発車するとすぐ嘉手納線と分かれて真玉橋へ。
辺りは麦畑の続く農村地帯で、古波蔵の集落は駅より北西に離れていた。
今の高さくらいを鉄道が通り、国道は2M以上低かったので国道よりアルコール工場へ通じる道は鉄道の下をくぐっていた。
図説・沖縄の鉄道/加田 芳秀 p57、58(省略編集)

泉崎大ミチ


那覇市史より引用します。

阿部[幸兵衛]糖商資本はこの沖縄製糖を足場にして台湾へ進出した。沖縄製糖は1912(大正1)年11月台湾における赤司初太郎経営の雲林拓殖会社および改良糖廊を買収し、これを機会に沖縄製糖の社名を沖台拓殖製糖株式会社に改めた。 p360

沖縄の分蜜糖業界に置いても独占化が進み、南大東島を除いては台南製糖株式会社の独占となった。「台南製糖」は(略)1913(大正2)年に創設された会社である。同社は1917(大正6)年8月、矢野慶太郎の「沖縄製糖」を買収し、その高嶺、宜野湾に工場を入手して沖縄に進出した。また同年12月には沖台製糖株式会社をも買収し、その西原、嘉手納、豊見城の3工場をも手に入れた。
1918(大正7)年5月には赤司初太郎の「大正製酒」沖縄工場を買収、1912(大正10)年には宮古製糖株式会社を合併した。 p360~361
那覇市史通史編第2巻 (省略と抜粋)


上記引用部分をまとめると、赤司初太郎経営の会社を1912年に「沖縄製糖(沖台拓殖製糖株式会社)」が買収、同じく赤司初太郎の「大正製酒」沖縄工場を1918年に「台南製糖」が買収ということになります。

酒精(略)
本年市場に現われたるものは台湾製糖会社及塩水港明治の両精糖会社、赤司製酒会社、台湾製酒会社等の製品なり
台湾日日新報(新聞) 1917.6.19-1917.6.27(大正6)

http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/ContentViewServlet?METAID=10021195&TYPE=HTML_FILE&POS=1&LANG=null

明治37年、日露戦争が始まると国内のアルコールの需要は急速に伸びた。戦争で使用する火薬の原料としてである。その頃国内にはアルコール工場は数ヶ所しかなかった。(略)軍需景気にのり生産をしたが、戦争が終わると供給過剰の時代になってしまった。おまけに台湾から糖蜜を原料とした、安くて良質のアルコールが入り始めた。
---
彼は宇治火薬製造所内の酒精工場でアルコールの技術を習得し、先述した小西三郎のもとで製造に従事した。宮崎は大正9年、台湾の実業家赤司の設立した大正製酒株式会社の東京王子工場長となる。なお、大正製酒王子工場は関東大震災で全滅し、昭和4年に宝酒造株式会社王子工場として再建する。

http://www42.tok2.com/home/uwajimanenrin/nenpyou/oomiya.html


昭和4年6月 大正製酒株式会社を吸収合併、王子工場とする。
宝ホールディングス(旧寳酒造)

http://www.jabira.net/enkaku/ta/takara-holdings.htm


台湾には「赤司製酒会社」と呼ばれる会社が酒精を生産、東京では赤司の設立した大正製酒工場があったようです。
今までの引用を整理すると以下のことがわかりますがこれらが同じところなのかどうかは確定しません。それぞれ関連があるようにも思えますが名称の不統一(赤司/大正)は何故なんでしょうか。
真和志民俗地図(戦前相当)には古波蔵駅北に「台南清酒工場」がある。
1917(大正6)年発行の本には「赤司精酒醸造所」という写真がある。
1917(大正6)年発行の台湾の新聞には「赤司製酒会社」という名前が見える。
1918(大正7)年には赤司初太郎の「大正製酒」沖縄工場は「台南製糖」に買収。


赤司初太郎について検索してみます。
赤司初太郎 1874(明治7)〜 1944.2.12(昭和19) 明治・大正・昭和期の実業家、財界人 高知県出身。日清戦争期に陸軍軍属として台湾に渡る。台湾で雑貨店等をはじめ、樟脳製造業で成功し、次いで鉱業、製糖業、新聞事業などを起こす。東邦炭砿、満洲製糖、昭和製糖、台湾電燈、台湾バルブ、台湾日日新報、台湾鉄道などの経営を行い、そのほかの多くの企業の取締役をつとめた。
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/A/akashi_ha.html


以下は余談として。
直接は関係ないですが面白いページでした。

台湾日日新報 1927.10.9-1927.10.21(昭和2) 台南製糖が昭和製糖となる迄 (一〜七)
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/ContentViewServlet?METAID=00222675&TYPE=HTML_FILE&POS=1&LANG=null

台中ぶらり③大正製酒株式会社醸造工場 (台湾台中)
http://blogs.yahoo.co.jp/nipponia_nippon3/42216908.html

三原橋

市民の友1959年4月15日(第102号)に三原橋の竣工記事があります。
別記事を参照すると完成時期は1959年3月だったようです。

三原橋竣工
去る1月14日から○工されていた三原橋がこの程完成した。この橋は日野通りから料亭田づる横を通り、三原に通ずる安里川支流のキブンジャ川に架けられた橋で、今まで三原一帯の住民が都心部に行くには真和志支所や料亭○之家前を迂回しなければならず非常に不便をかこっていたが、この三原橋の完成によって最短距離となり付近住民から喜ばれている。施工者は宮里組(代表者宮里徳喜氏)で工事費は2840ドルで竣工した。
※○は不明文字
市民の友 1959年4月15日 第102号(抜粋)


図は日野通り付近で茶で示された道は旧道です。オレンジが日野通りで強調された青色がキブンジャ川になります。三原橋完成以前は赤い点で示した橋まで大回りしなければならず不便です。
不明文字の「料亭○之家」となっているのは昭和中期のゼンリン地図で確認できる「登美の家」(243-1)ではないかと思われます(下図/交差点角)。この登美の家はゼンリン地図でみるとそばに別館もありますから結構大きかったようです。
登美の家

戦前相当の真和志民俗地図を見るとこの範囲のキブンジャ川には振興橋しか架かっていません。というかこの日野通りからキブンジャ川一帯には集落がなかったようで、真和志村役場(真和志支所)や振興橋付近が一番近い集落であったようです。その集落も旧くからあったものではないと思われます。

話は変わるのですが日野通りの入札記事がありました。日野通りの由来はこの「日野商会」に由来しているようです。
三区の日野通り改修工事
市土木課では3月24日市内三区日野通り(ひめゆり通り大城医院前-日野商会に至る道)の道路改修工事の入札を行った。
市民の友 1959年4月15日 第102号(抜粋)

その「ひめゆり通り大城医院」も先日取り壊されたようです。
記録としてまだ入れ替わっていないストリートビューをキャプチャしておきます。
大城外科(ひめゆり通り)

【追記】1963年の琉球商工会議所会員名簿に登美の家がありましたので抜粋しておきます。名簿内では料亭で5軒しかないうちのひとつですから結構格が高かったんじゃないだろうかと思われます(他は清風荘、那覇会館、松乃下、左馬)

料亭/資本金6,666/登美之家/金城利江/那覇市壷屋町243ノ1

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