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我那覇鉄工所/我那覇機械修理所

「沖縄實業と文化人名録/上原軟剛」から引用します。

お客様の身になって低廉・確実・懇切・迅速
我那覇機械修理所
5区17組(崇元寺橋●)
船舶機械・一般機械 
内燃機関・修理工作
電気ガス溶接其の他
我那覇生喜
我那覇生直
渡嘉敷眞孝
---
沖縄に数少ない設備と技術を以て廉● 確実 迅速をモットーとする
(戦前宮元鉄工所 大城鉄工所の我那覇で知らる)
合資会社 我那覇鉄工所
船舶発動機・陸上機械
精米機 製糖機 製作修理
各種機械類器具 工作修理
銑鋳物並に各種鋳物
代表者 我那覇生長
職長 焼玉エンヂン専門 我那覇生正
副長 ディゼルエンヂン専門 我那覇生俊
鋳物主任 知念正智
※●は不明文字
沖縄實業と文化人名録 p129


我那覇さんの身内が多いようですね。5区17組は崇元寺から橋に向かって渡る手前の左側と橋を渡った左側です。
各民俗地図にある戦前の鉄工所や鍛冶屋などはまとめたことがあります。
鍛冶屋
図中で若狭の潟原側にある2が我那覇鉄工所です。
参考:グダグダ(β) 鍛冶屋

「沖縄實業と文化人名録」はおそらく1951年発行の「沖縄主要地・主要商工年鑑/上原 軟剛」と同時期のものだと思われます(未確認)。
ほぼ同時期くらいに船越義彰さんは知念から那覇へ戻って来ていてダイエー(現ジュンク堂)近くに「我那覇という鉄工所と鋳物工場」があったことを記憶しています。

移った場所だが今どのあたりか見当がつかない。沖映を目安にすると現在のダイエーの向かいあたりに「料亭那覇」があった。真新しい建物だったと記憶している。その近くに我那覇という鉄工所と鋳物工場があり、その真後ろの茅葺きの家が我家であった。
狂った季節/船越義彰 p231


【追記】
那覇まちのたね通信 | 那覇(ガーブ川)/浚渫工事前のガーブ川(現・ダイナハ裏)/戦後/左岸の煙突の建物は我那覇鉄工所
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=1677
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呉賢貴

呉賢貴
1886(明治19)年〜1940(昭和15)年
日本に帰化した福建茶商で、白鶴拳の達人。白鶴拳は福建沙蓮寺碧砕蓮庵の方慧石が一人娘の方七娘に伝えた南派小林拳の名門。呉は福州市出身で、1912(大正1)年に来琉し、那覇の東町大門前の<占春会>(福建人で書家・詩人・茶商の高相杰[こうしょうけつ]経営)の手伝いをするが、後に独立し、<永光茶行>を経営する。
上地流開祖上地完文や剛柔流開祖宮城長順らと親交があり、大正から昭和10年前後の空手関係者に大きな影響を与える。茶業に精を出しながら夜は安仁屋正昌(現<安仁屋洋行>経営)を筆頭弟子として門弟たちに白鶴拳法を教える。拳友に東町で<公和茶店>を営む五祖拳の達人唐大其がいたが、二人とも当時の拳人たちから注目された。呉のもっとも得意とするのは鶴の手。
沖縄大百科事典から引用


ここでは商人としての呉賢貴に注目したいと思います。
とはいえ大門前にあった高相杰の「占春会」から独立して「永光茶行」を設立したということしかわからないのですが...

那覇まちのたね通信 | 那覇(商店)/公和茶店/戦前/(1917年頃)
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=1024

旭町埋立地の売却

旭町公有水面埋立地の売却
那覇市が埋立で造成した旭町公有水面の埋立地(約208000㎡)を埋立事業の償還費、都市計画事業の対応費、保育所建設費、公営住宅建設費、庁舎建設計画費、及び公債に当てるために次のように随意契約で売却することが承認された。
△崇元寺町1の144 石原昌信氏ほか9名に500坪1合を30006ドルで売却(坪60ドル)
△那覇バスターミナルKK取締役社長、上原敬和氏に3000坪を15万ドルで売却(坪50ドル)
△沖配電株式会社社長、国場幸太郎氏に1024坪を55335ドル、坪当たり55ドルで売却、沖配電では資材集積所、修理工場を増設する。
△沖縄バスKK社長、中山良輔氏に1034坪を56878ドル(坪当たり55ドル)で売却、沖縄バスでは修理工場、車庫をつくる。
△オキコ株式会社仲田睦男氏に547坪を32846ドル(坪当たり60ドル)で売却。
△社団法人沖縄タクシー協会社長島袋嘉之氏に277坪を16620ドル(坪当たり60ドル)で売却
市民の友 1965年7月15日 第155号


旭町には現在も沖電、バス会社がありますし、過去には国場ベニヤ(プライウッド社)がありました。少し前までタクシー会社もあったような記憶がありますが定かではありません。
崇元寺の石原昌信さんは他の場所にも名前が出て来ます。

所属未低地の編入二件
埋立は完了したがまだ所属未定地となっている次の二件が那覇市域に編入された。
△若狭町1丁目地先にある公有水面埋立地(面積1134坪、28年10月30日埋立人か、水族館、臨時観光ホテル用地として埋め立てたもの、所有者、石原昌信及び山内宗一両氏)
△那覇市が埋め立てた旭町公有水面埋立地42489平方米。
市民の友 1965年7月15日 第155号


「水族館、臨時観光ホテル用地」ってのはなんなんでしょうか。

寄宮の区画整理計画

長田原からの陳情で1962年の市民の友に掲載された陳情を取り上げたのですがその後の進展が伺える記事があったので取り上げてみたいと思います。
1964年4月の市民の友には寄宮地区の区画整理計画が掲載されています。

寄宮の区画整理始まる
4月17日起工式開く 四万三千坪の宅地造成
市建設部は、1964年から67年度までの四ヶ年計画で、市内寄宮地区の土地区画整理事業を実施することにしているが、4月17日区画整理地域内の広場で、起工式を開き、本格的に事業をはじめた。
寄宮地区の区画整理は、およそ四万四千坪で、事業費総額265000ドル。政府と市が20万ドルを負担、賛費地処分益65000ドルで1967年までの四ヶ年間に、寄宮地区を住宅地に造成し、こどもの遊び場や道路、排水など、公共施設を整備する。
市区画整理課はすでに寄宮中学校近く(ガーブ川上流)の排水路工事を12000ドルで市内大嶺組の請負により着工し、65年8月から区画整理をはじめることとし、地主との調整を急いでいる。
なお四ヶ年計画のあらましはつぎのとおり。
▽1964年度/整理前後の土地の評価決定、換地総合計画、排水路工事の実施完了、建物移転
▽1965年度/換地の各筆割込実施終了、換地予定地の指定、仮決算金の聴衆交付準備、宅地造成、道路・排水路工事の実施、支障物件の移転実施(106000ドル)。
▽1966年度/賛費値処分の実施(27000ドル)、区画整理陶器の代位登記甲請実施、、宅地造成、道路排水路工事の実施、支障物件の移転実施(57000ドル)
▽1967年度/換地処分認可甲請、確定測量実施完了、請算金の決定、徴収・交付実施、区画整理登記の実施、賛費処分地へ(37000ドル)、残工事の実施完了、事業完了報告
市民の友 1964年4月15日 第164号(抜粋と編集)


>市区画整理課はすでに寄宮中学校近く(ガーブ川上流)の排水路工事を12000ドルで市内大嶺組の請負により着工し、

1964年にはすでに工事は始まっているようです。

トゥングヮーマーチュー

「那覇市旧跡・歴史的地名地図」での泉崎ハーバービュー周辺の旧道です。ハーバービュー周辺は比較的早く区画整理されたため旧道が消えていますが城岳から南側はそうでもありません。
「那覇市旧跡・歴史的地名地図」は昭和10年代後半相当で、下図での薄い茶色は推定された道路、茶はそうではないものになります。
泉崎
ピンクの線が那覇・真和志境界線です。
緑で示された箇所が「トゥングヮーマーチュー」で、そばの青いポインタが「王川(汪ノ井)」、赤いポインタが「王の殿(汪ノ殿/仲里御殿)」です。ポインタで示された箇所は現存していますね。

マーチュー/(名詞) ※マチュー macuu ともいう。
意味:松林。松原。松尾。

http://ryukyu-lang.lib.u-ryukyu.ac.jp/srnh/details.php?ID=SN35054


トゥングヮーマーチューはトゥン(殿)のマーチューなんでしょう。那覇民俗地図ではトゥングヮーマーチューの南側一帯は墓になっています。



金城南海(唯貞)

戦前のこと。沖縄県庁の隣りにあった、沖縄県工業指導所(当時、安谷屋正量所長・漆芸関係技師は生駒弘)には、奇妙な組み合わせとしか言いようのない人々がいた。後の衆議院議員で共産党副委員長の瀬長亀次郎や沈金氏の金城南海氏らである。
南海さんの仕事は、漆器の盆や碗類に下絵のような彫りをいれ、後で漆を引き、金粉をすり込むという作業で、繊細なテクニックを要するものだった。(略)生駒技師も、南海さんには一目おいていて、会話を交わす言葉も丁寧だった。
南海(本名・唯貞)さんは1888(明治21)年1月、那覇市若狭町に生まれた。父唯●が王家の貝摺奉行所で螺鈿・沈金に従事していたため、幼少より手ほどきを受けた。後、熊本の聯隊に入隊、日本画等を学ぶ。除隊後は京都に直行して、図案などを学ぶ。その芸術的素養は大部分この時代に培われた。帰郷後は沈金技法を行う。沈金の外、絵画、書、俳句をよくし、丹青協会に属し、山田真山らと球陽画会を組織し活躍した。戦争中は宮崎に疎開した。享年81歳。1969(昭和44)年11月28日没。
沖縄人物シネマ p150、151(抜粋と編集)

※●は瀚のさんずい(氵)を取り去ったもの。


若狭出身の職人さんですね。
沖縄県工業指導所は下図のポインタの位置あたりにあったと那覇民俗地図にはあります。
正確には県庁のそばの道路からは真和志の字松尾石川後原なんですが真和志民俗地図には記載がありません。
沖縄県工業指導所

70年代くらいの国際通り

国際通り
Naha, Okinawa; Kokusai Dori from Dept. Store (1971)
http://www.hlswilliwaw.com/SlideShows/Okinawa-Part-2/Okinawa-Part-2/1/lg/Okinawa_1971_02_s20.htm



写真はむつみ橋から山形屋向けで1971年撮影ということになっています。
この範囲で同時期くらいのゼンリン地図から店舗名を抜出してみます。

まず写真右手、むつみ橋角付近に「金城歯科」の看板がナイアガラの看板に隠れるように写っています。金城歯科からむつみ橋よりに二つ隣りには大きく写っている「六本木」があり、写真に入っていませんがその隣りは中央相互銀行、大洋堂となっています。
「月星靴」の後ろにはよく読めない看板がありますが「ワニ」という字が読めないこともありません。ゼンリン地図ではこのあたりに「クロコデールストア」という店がありました。
写真には写っていませんが大湾洋服店は当時からあります。山形屋隣りにはたまや呉服店がありました。

この時代のOPA(元フェスティバルビル)は並里百貨店となっていて、その隣りは喫茶いずみ、いずみ写真館、とうま洋装店、だいわ靴店となっています。このうちの何件かは少し前まであったか現在もあるかと思いますが確認していません。
場所が不確かではあるのですが「ラテンコーター」という店があり、ここは「ラテンクォーター」という有名な店ではなかったかと推測します。年配の方と話をするとたまに出てくるんですよ(笑)。
そして山形屋の斜め向かいに店頭に洋服生地等を飾ってあった店があったかと思うのですが、ここがおそらく玉宮モードコーナーです。おそらく現在の十文字屋呉服店の隣りかもう一つ隣りではないかと思いますが記憶が定かではありません。

この時期のこの範囲には呉服店やふとん屋、洋服店・洋裁店、時計店、写真館、宝石店などが複数あり、普段の買い物でくる場所ではない場所という感じがします。
クロコデールストアーはおそらくワニ皮製品を扱っていたので観光客相手、山形屋近くのカスリネクタイ館や角萬漆器もおそらく観光客相手でしょう。

【追記】クロコデールストア ---> 照屋敏子

福山商事ビル近辺

外人さんから写真を拝借。
国際通り
Naha, Okinawa; Kokusai Dori from Dept. Store (1971)
http://www.hlswilliwaw.com/SlideShows/Okinawa-Part-2/Okinawa-Part-2/1/lg/Okinawa_1971_02_s20.htm

通りの中心からの写真ですのでむつみ橋の陸橋(撤去済)からの撮影ではないかと思います。
昭和中期のゼンリン地図よりこの範囲あたりを抜出してみます。図で右上のT字路がむつみ橋で、以前はここに陸橋がありました。

写真の時期と参考にしたゼンリン地図の時代はズレているかとおもいますのでご注意。
写真の右側(山形屋側)で一番高いビルである福山商事(ビル)のウェブページから引用します。

昭和26(1951)年11月/沖縄県那覇市牧志町2丁目282番地の1に福山商事(株)を設立。新聞巻取紙、和洋紙、水道資材、電気通信資材等を販売
昭和35(1960)年11月/那覇市牧志町1丁目344番地の4に新社屋を建築、旧社屋より移転

http://www.fukuyamacorp.co.jp/history2.html


国際通りのこの辺り一帯の住所が344番地になっているので正確な場所はここからはわかりません。ゼンリン地図では「福山商事ビル」とは書かれていないのですがホテルがあります。このホテルは「国際ホテル」で同じビル内(?)に国際レストラン、レディタウン、スタイル靴店が入っていることになっています。
まちのたね通信にあるいくつかの写真にもこの建物は写っています。

KOKUSAI表記の写真。
那覇まちのたね通信 | 那覇(国際通り)/国際通り 牧志・松尾付近/(1960年代後半)
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=1750

DAIICHI表記の写真。
那覇まちのたね通信 | 国際通り/投稿日時:1963年7月
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=543


60年代後半の写真で「KOKUSAI HOTEL」、63年3月の写真は「DAIICHI HOTEL」になっていますので、第一ホテルでスタートして後年国際ホテルになったということだと思われます。

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