戦前のこと。沖縄県庁の隣りにあった、沖縄県工業指導所(当時、安谷屋正量所長・漆芸関係技師は生駒弘)には、奇妙な組み合わせとしか言いようのない人々がいた。後の衆議院議員で共産党副委員長の瀬長亀次郎や沈金氏の金城南海氏らである。
南海さんの仕事は、漆器の盆や碗類に下絵のような彫りをいれ、後で漆を引き、金粉をすり込むという作業で、繊細なテクニックを要するものだった。(略)生駒技師も、南海さんには一目おいていて、会話を交わす言葉も丁寧だった。
南海(本名・唯貞)さんは1888(明治21)年1月、那覇市若狭町に生まれた。父唯●が王家の貝摺奉行所で螺鈿・沈金に従事していたため、幼少より手ほどきを受けた。後、熊本の聯隊に入隊、日本画等を学ぶ。除隊後は京都に直行して、図案などを学ぶ。その芸術的素養は大部分この時代に培われた。帰郷後は沈金技法を行う。沈金の外、絵画、書、俳句をよくし、丹青協会に属し、山田真山らと球陽画会を組織し活躍した。戦争中は宮崎に疎開した。享年81歳。1969(昭和44)年11月28日没。
沖縄人物シネマ p150、151(抜粋と編集)※●は瀚のさんずい(氵)を取り去ったもの。

若狭出身の職人さんですね。
沖縄県工業指導所は下図のポインタの位置あたりにあったと那覇民俗地図にはあります。
正確には県庁のそばの道路からは真和志の字松尾石川後原なんですが真和志民俗地図には記載がありません。

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