忍者ブログ

グダグダ(β)

メンテナンス中/内容について一切保障できません
3/24アクセス解析再設置/不快に感じられる方はJavaScriptオフを推奨

MENU  ブログ内検索は左のMENUからできます

ENTRY NAVI

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

泊の鍛冶屋

タイトルとは違って泊出身者なのか泊で営業していたのかの区別はつきませんが、これは引用元の「泊人の足跡」の性質に由来します。
そのへんご注意頂きたい。

昭和に入ってからの鍛冶屋は平民士族の別なく、泊や上之屋、久茂地2丁目(普嘉路)にあった。なかでも久茂地2丁目は鍛冶職が多く、再生時は17、8軒もあって、一名その通りを「カンジャー小路」とよんでいた。農機具の製作は機械によらぬ手製で、ふいごを使うのは女性(親方の妻)か見習少年で、親方と相対する「メーウチ」が呼吸を合わせて、「トンテンカン」と刃物や農具の製作に汗を流したものであった。庖丁などは竹の葉型の家庭用「チリバン庖丁」、「ワーサー庖丁」などいろいろあったが、この庖丁は一名「ヒジュルムン」(冷たき物)といわれていた。
---
庖丁上一本50銭、鎌一本20銭、ヒーラ一本20銭
---
島袋次郎(明治生)、石川清喜(明治44生)、崎山嗣郎(明治生)、島袋亀(明治生)、崎山嗣光(明治生)、田場次郎(明治生)
石川松助 大正6年生、戦後寄宮で経営
吉浜朝吉 大正6年生、吉浜照訓弟、沖縄市で吉浜工業所経営
泊人の足跡/松村興勝 p58、59(抜粋と編集)


ワーサーはウヮーサーでしょうか。
ウヮーサー/屠殺業者。主として豚を屠殺する者をいう。牛を屠殺する者を特にさす場合は、ウシ ウヮーサー usiwaasjaa という。
http://ryukyu-lang.lib.u-ryukyu.ac.jp/srnh/details.php?ID=SN45011


チリバンボーチャー/たばこを切る包丁。普通の包丁よりもずっと大きい。
http://ryukyu-lang.lib.u-ryukyu.ac.jp/srnh/details.php?ID=SN21532


鍛冶屋というと刀鍛冶のような手打ちの作業を思い浮かべますが、戦前の鍛冶屋と称される仕事には鉄工所も含まれていますし動力を導入している所もあります。
この辺を区別して考えてしまうのは自分も刀鍛冶のイメージが強くあるせいですね...

グダグダ(β) 上之屋通りグダグダ(β) 上之屋の鍛冶屋 (崎山カジヤ二つと石川カジヤ)
グダグダ(β) 鍛冶屋 (旧那覇市内の鍛冶屋など)
PR

泊の風呂屋

今でこそ建築様式の変化で自家風呂が多くなっているが、それでも自家風呂のない人は銭湯(風呂屋)を利用している。
その銭湯の営業が沖縄で始まったのは明治23(1890)年3月で、泊では新屋敷の「ンナト(港)」の新崎が風呂屋をはじめたといわれる。この風呂屋に次いで、泊市場の南西に湯屋ができたのは明治の後期であると思うが、年配の人は記憶にあることと思う。
新崎の風呂屋について松茂良カメ(90)が語るところによると、彼女の若い頃新崎の湯屋で入浴したが、当時入浴に女性は着物を一枚持参し、入浴は「バサー」を着て浴槽に入り、同じ女性同士でも全裸を見せないようにしたという。また武士松茂良興作も、入浴にこの湯屋へ出入りしたそうである。
---
石川逢篤渡口武富山田ウシ(昭和42年没/80歳)、玉城(屋号 タケモト)、宮城(瑞慶覧の斜向い)、佐久川長吉(沖縄戦まで営業)、佐久川長栄(現前島小学校隣にて営業 佐久川長吉の子息)
新崎興佑 安政3年生、泊の湯屋の始まりといわれるンナトゥの新崎、大正3年没
親泊英錦 泊市場の南門、隣りに泊郵便局があったが火事で焼失
泊人の足跡/松村興勝 p167、168(抜粋と編集)


この本の発行は1985(昭和60)年です。
バサーは芭蕉布の着物ですが「バサー 着物」で検索するとエイサー衣装と認識されているような... 本物は現在高級品ですから手にとる機会も庶民にはほとんどないでしょうけども...

土地整理事業と原名

面白かったのでご紹介。

沖縄における明治期土地整理事業と原名: University of the Ryukyus Repository
http://ir.lib.u-ryukyu.ac.jp/handle/123456789/15709


土地整理事業は内地の地租改正と同じようなものですが沖縄では遅れて実施されています。

参考:中野文庫 - 沖縄県土地整理法
参考:土地整理 (とちせいり) - 琉球新報 - 沖縄の新聞、地域のニュース

土地の境界などを定めたわけですが、一つの図は「○○原」という単位で作られたらしく、その際にはまとめたり、名前を確定させたり等々の操作が行われたようです。そしてそれ以前の範囲などは調べることが困難であるそうです。
つまり自分が伝統的呼称であると考えている「原名(はるなー)」は明治後期に確定されたものであり、それ以前の伝統的呼称などをひきついでいるけれども範囲や境界などについては土地整理の際に変化している可能性があることを頭に入れておかなければいけないということになりそうです。
不思議と各原の大きさが近かったり、利用されていなかった荒れ地にも境界線があったりなど、どこかで何かのきっかけがあったんだろうなとは思ってたんですがはっきりしました。

当時の新聞をみていると土地整理関連の記事はけっこうあり大事業だったのがわかります。また従事した人間も全国から集まっていたようです。

貝ボタン

古賀辰四郎の古賀商店は多様な賞品を扱っていたのですが、その中で貝ボタンも扱い、沖縄県産の)夜光貝、高瀬貝、広瀬貝を原料として買い上げていました。

海歩きでこれらの貝が拾えたら儲け物なんですが(刺身的に)、当時の沖縄でも中身はともかく貝殻は捨てられるだけだったようです。

大石の呪いでこういう証言がありました。
それから通堂、三重城にボタン会社があって、針でボール紙にボタンを付ける仕事もしました。賃金は十個つけたら八銭とかね。p148

古賀商店ではこのような事業がありました。
那覇寄留の時代では、夜光貝殻等と加工、製造された水産物を大阪古賀商店へ送りだし大阪古賀商店ではそれらの産物を外商を経由して海外輸出し利益を那覇古賀商店に還流し、古賀辰四郎はそれを資金として水産物の調査開拓、大東島、尖閣列島ほかの無人島の探険を行なっていたのである。
http://senkakujapan.nobody.jp/page044.html#%E5%8F%A4%E8%B3%80%E8%BE%B0%E5%9B%9B%E9%83%8E%E3%81%A8%E5%A4%A7%E9%98%AA%E5%8F%A4%E8%B3%80%E5%95%86%E5%BA%97
ここでは「夜光貝殻と加工、製造された水産物」となっていますが、夜光貝殻と加工・製造された水産物というふうに読むのが正しいのではないかと思います。古賀商店の貝以外の扱いはフカヒレ、べっ甲、干しナマコ、するめなどで、貝殻と書かれてはあっても貝ボタンとは書かれていません。

「近代における地域漁業の形成と展開/片岡千賀之」にはこのような記述があります。
大正7年8月に古賀が死去し、息子の善次が事業を継いだ。(略)八重山支店ではサザエを原料としたボタン加工を始めた、10台の機械があったが、労働力不足で6台が稼働したに過ぎない。ボタン加工といっても貝を刳り抜くだけで、賃金は1日20〜30銭の日給で、歩合制でないことから能率があがらなかった。
近代における地域漁業の形成と展開 p23


沖縄以外にも南洋などからも貝ボタンの原料は(大阪に?)輸入していたようですし、輸出先は外国です。ボタンとして加工して出したのか原料としてそのまま出したのかはわかりません。
加工してボタンの形にした方が重量的にも価格的にも有利だと思いますし八重山でくりぬく作業を試していたことも確かです。通堂や三重城(港のそばの倉庫地帯です)で台紙に縫い付けられていたボタンは製品として仕上げられたものだったと思われますがそれがどういう段階を経てきたのかはさっぱりわかりません。
結論はありません(笑)。

【追記】土橋幸次郎により西新町2丁目で貝ボタンが製造されていたとありました。

関連
グダグダ(β) 土橋幸次郎 (大正〜昭和期の貝ボタン製造業者)
グダグダ(β) 大石の呪い
グダグダ(β) 古賀商店

那覇市内の氷室

氷室
今でこそほとんどの家庭の台所に冷蔵庫が鎮座し、食品の保存冷蔵に欠くことのできない家庭用品になっている。戦前は沖縄ホテルや宝来館などに電気冷蔵庫があったが、食堂や大きいそば屋は、木製にトタン張りの冷蔵庫に氷(四貫匁、二貫匁)を入れて使用しているくらいで、一般家庭に普及していなかった。夏期になると、あちこちに氷のカチ割り、割り氷を売る俄か飲料用氷販売店があった。その氷は山下町の沖縄製氷株式会社で製造され、市内東町3ノ28のヤマセ商店(末松重喜)と西本町1ノ21の小村氷室(小村ちゑ)の二ヶ所が特約店で、ここで販売されていた。
そのため熱病患者があった場合、前記に箇所に氷を買いにいったものである。距離的に遠い泊から、一貫匁氷を買って帰宅するまでに、溶けて八百匁になる有様であった。
昭和初期に高橋町1ノ2屋嘉の貸屋で、那覇市役所を退職した高嶺朝忠が氷を販売していた。
氷一貫匁15銭
泊人の足跡/松村興勝 p84、85(抜粋と編集)


図は「昭和初期の那覇市街図」を参考に作成しました。
宝来館は那覇市西新町3ノ3、沖縄ホテルは波の上です。
参考:グダグダ(β) 那覇の旅館業(S12)
参考:グダグダ(β) 宮里定三(沖縄ホテル)

【追記】那覇市史に抜粋された明治40年6月の琉球新報の「市井雑感」に氷卸業の項目があり「氷卸売業 この営業は区内に2名在りて小売業者は16名あり」と書かれていますが注意しておきたいのは市制施行前の那覇区ということです。

グダグダ(β) 垣花の水産関連施設
グダグダ(β) 琉球製氷株式会社 (大正12年、山下町の琉球製氷株式会社の広告)
グダグダ(β) 氷屋 (氷関連の広告)
グダグダ(β) 氷冷蔵庫 (昭和3年の広告について)

泊の酒造

「泊人の足跡/松村興勝」の酒屋の項目から抜粋します。

明治37年頃の37戸から、大正時代10余戸に減るという状況であった。こうした生存競争に生き残った酒造業者も、今次大戦中の統制経済による原料不足などや、企業統合などで転廃業を余儀なくされ、泊でも昭和19年には4軒となった。 p86
---
玉那覇、浦崎、渡口、伊佐、有銘マカト、糸数酒屋、石川逢篤、伊波興耀
真栄城嘉観/町端の真栄城小、大正初期頃廃業
仲本興公/戦後開業(現在廃業)p88
泊人の足跡/松村興勝 (抜粋と編集)


石川逢篤さんの名が見えますね。
仲本興公さんは戦後すぐの酒造関係の名簿に名前が見えますが、本の発行時である昭和60年には廃業していることがわかります。
伊波興耀さんは「藍売り」の項目で取り上げられています。

藍売り(イエーウイ)伊波の名称について、その後裔伊波興静の談によると、藍売り伊波の名をなしたのは興静の曾祖父興耀である。興耀の父興茂の時代に本部間切伊豆味に移住した。興茂の長男興耀は、一生草深き山原に埋もれるのを潔しとせず、朝な夕な遥かなる生まれ村泊に思いをはせ、いつの日にか財をなし郷里泊村に帰ることを切実なる念願としていた。
当時、本部間切は藍の産地で、これに着目した興耀は藍の生産と販売を志し、藍草を栽培し、藍生産に全力を傾注し、その藍を織物の村泊、垣花に販売していた。
たまたま島中に天然痘が発生し、その天然痘の伝搬を防ぐため、泊村への入口、上之屋から泊村へは立ち入り禁止となった。さて、この立入り禁止令の影響で、織物の染料たる藍の入手が困難と也、需要供給の均衡がくずれ藍の相場は高騰した。この藍により蓄財をなした興耀は、これしきに満足せず、より一層の飛躍を試み、名護に店舗を構え、商売に精を出し、更に泊村(戦前の高橋町1の111)で酒醸造所を経営した。
こうした勤勉努力の興耀が、藍商売で蓄財をなしたので「イエーウイ イハ」(藍売り伊波)と呼ばれるようになった。
---
伊波興耀 嘉永元年生 大正6年没(70歳)
泊人の足跡/松村興勝 p10、11 (抜粋と編集)


藍売り伊波は「戦前の泊の地図」では「藍売伊ハ小」として泊小近くにあり、「伊佐酒ヤ 浦崎」はハーリーヤ(現OK給油所)向かいあたりにあります。

泊大工

泊には名の売れた大工が多く、区内の家屋の建築はこれ等の名工の手によってなされていた。家屋建築の場合、ほとんどが請負制度であり、請負完了まで、5日または10日間ごとの勘定で職人に賃金を払っていた。
家具の場合は、資材を購入して、製作した製品をしないと収入がなく、それ故家具専門職が少なかった。泊には名大工の多い割に家具職は少なく、家具購入は、おおむね久米大通りに家具屋まで足を運んだものである。
こうしたなかで、泊出身で家具職に従事していた人は幸地長仁、瑞慶山良功、新田宗睦、新田宗盛、伊波興成等であり、泊で家具を製作(店舗を構えず)していたのは伊波興成であった。他の人は、市の中央部で家具製作に従事していた。
戦前は現在のように移入による既製品の家具はなく、県産品ばかりであった。
泊人の足跡/松村興勝 p61


久米大通りは大門前交差点から西武門に至る区間である。この界隈は昔、唐栄といわれた久米三十六姓の帰化人が住み、大通りに面した所も石垣囲いがあったが、間もなく撤去商店街に生まれ変わった。この通りは主に建具類や塗り物などの家具類が多かった。若狭町方面から大門前までタンス、茶ダンスその他の什器類が所狭しと陳列されていた。
久米大通りの家具店は、タンス、茶ダンス、ちゃぶ台、机その他の家具を客の求めに応じて注文を受け製造販売をしていた。久米町の家具店は見世の裏に工場を持って製作していたが、いつごろからか、表通りに面した店の表で製作をする業者が増え、家具店は腕のよいタンス大工を店に雇って腕自慢の家具を製作、販売をして信用を高める努力をしていた。しかし、働いているタンス大工は腕自慢が多く、転々と職場を変える職人も多かった。
那覇市史資料編第2巻第二巻中の7 p299



新栄通りには戦後すぐから新田家具店という家具屋がありますが泊の人なのでしょうか。

ターイユマチ(ふな市)

魚市の東端に、ターイユ市があって、ンナジ(うなぎ)、クーイユ(鯉)、ターイユ(鮒)、アタビチャー(蛙)の生きたものを売っていた。ふなや蛙は買い手がつくとすぐ解体してくれたが、その手早い処理がめずらっしく立ち止まって見とれたものである。ふなは熱さましによいといわれ、風邪がはやると良く売れて、これと一緒にせんじるンジャナ(苦菜)やフーチバー(よもぎ)もあった。そのとなりあわせに漬け物市や糸満女たちによるカマボコ市もあった。
那覇市史資料編第二巻中の7、p285


上図の右下にある青いポインタがふな市の位置です。
さらに線路を超えてその下にあるのがカマボコ市(下図)。
東町の糸満部落

参考:グダグダ(β) かまぼこ
参考:グダグダ(β) 長山冷凍/長山悦元
参考:グダグダ(β) 那覇市場(ナーファヌマチ)

× CLOSE

ブログ内検索

アクセス解析

カレンダー

05 2025/06 07
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30

最新コメント

[08/08 なちょうらーざ]
[07/19 shimoji]
[07/19 shimoji]
[03/21 2階の店舗の娘]
[03/05 福島敏彦]

× CLOSE

Copyright © グダグダ(β) : All rights reserved

TemplateDesign by KARMA7

忍者ブログ [PR]