忍者ブログ

グダグダ(β)

メンテナンス中/内容について一切保障できません
3/24アクセス解析再設置/不快に感じられる方はJavaScriptオフを推奨

MENU  ブログ内検索は左のMENUからできます

ENTRY NAVI

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

自動車運転免許

戦後の運転免許について沖縄県警察史より抜粋します。

運転免許事務については、1946年4月の沖縄民政府設立後から、工務部陸運課において試験を実施し、有効期限5ヶ年の免許証を交付していた。一報米軍車両を運転する沖縄人に対しては、ライカム交通規約に基づき米軍が運転免許証を発行していた。そのため、当時は民間免許証と米軍免許証の二本立てとなっていた。ところが陸運課の免許試験は、身体検査、学科試験、実技試験の三段階にわたり厳格に審査していたのに比べ、米軍の免許はかなり簡略化された試験であった。しばらくすると、米軍免許で民間車両を運転する者がかなり増え、それに伴って米軍免許所持者の事故率が高くなり問題となった。そのため、1953年以降は民間人が米軍車両、民間車両のいずれを運転しようとも、警察局(1951年に陸運課から事務移管)交付の免許証を受けなければならなくなった。またそれに合わせて米軍人以外の一般外国人(シビリアン)についても、警察局で運転免事務の取り扱いをするようになった。
1956年に道路交通取締法が施行されたのに伴い、免許事務も充実強化を図る必要から、那覇市西新町埋立地に運転免許試験場が設置された。
原動機付自転車は、当初、許可制であったため。各地区警察署で審査及び許可事務を取り扱っていたが、原付車の急激な増加と、その性能が自動二輪車と遜色がないほどに発達したため、原付車の事故が各地で頻発した。そのため、1961年6月27日に法改正がなされ、30日経過後に免許制が施行された。
沖縄県警察史第3巻 p459、460(省略と抜粋)


以前取り上げた手記に(Link)は「私はジープで基地内を30分ほどぐるぐる回って運転したら、「OK!」とすぐその場で運転免許証を手に入れ」とあるんですが、これがおそらく米軍の発行した米軍免許証の試験の様子です。そのあと那覇市に教習所ができ「本物の免許証を手にした時飛び上がるほど嬉しかった」と続きますがこれが上記引用での民間免許証だと思われます。
沖縄大百科事典の自動車教習所の項には1953年に那覇市安謝と首里坂下に教習所ができたとあるのですが、「1953年以降は民間人が米軍車両、民間車両のいずれを運転しようとも、警察局交付の免許証を受けなければならなくなった」ということから安謝と坂下の教習所はこれに対応したものだったと思われます。

また沖縄県警察史のp452には、1950年ごろから貿易開始に伴い車両が増え、やがてバスやトラック事業が営まれるようになっていったとあります。
自動車教習所関連では沖縄県警察史の表から免許保有者数と車両台数を抜き出してあり、免許保有者数が激増したのは52年の2744人から53年の9817人で7000人余りの増加、そのあとも毎年2000〜4000人づつ増え、59年には26194人になっています。ちなみに車両台数は50年の1128台から12067台と変化しています。
50年代の免許保有者数は、55年(16083)と56年(16365)だけ282人の増加となってますが、56年の道路交通取締法施行と那覇市西新町埋立地に運転免許試験場が設置されたことが影響しているんでしょうか。試験が厳しくなった?
PR

自動車教習所関連

戦後の自動車教習所についてです。

通称 自練、自動車学校
戦後は53年頃那覇市安謝に沖縄自動車教習所、ついで首里に首里自動車学校が設立された。68年公安委員会による指定制度が確立するまではすべて非指定の教習所であった。
沖縄大百科事典 (省略と抜粋)


沖縄自動車教習所は安謝岡野区5班、首里自動車学校は坂下にあったようです。
また運転免許に関する施設、自動車台数と免許保有者数は次の通り。

運転免許に関する事務は、1949年12月20日に沖縄民政府工務交通部から警察部(保安課)に移管され、1951年1月1日に交通課が新設され同事務を担当することとなった。また、1956年1月1日から道路交通取締法が施行され、翌年の1957年6月20日には、交通課の附置機関として自動車運転免許試験場が発足した。また、同年10月4日には、那覇市西新町3丁目79番地(現在那覇市西3丁目10番地の17)に、鉄筋コンクリート平屋の事務室と基本コースが竣工した。
沖縄県警察史第3巻 p264、265(省略と抜粋)


自動車台数
50〜59年
1128、2297、2780、3774、4448、5688、7820、8841、10986、12067
60〜69年
14412、17559、22558、28843、32521、41427、54296、70290、84428、96368
70〜71年
13389、137949
---
免許保有者数
51〜59年
2744、9817、12365、13870、16083、16365、20245、22377、26194
60〜69年
33566、42559、49925、64500、78082、92143、112459、128284、145431、162443
70〜71年
181303、200989
沖縄県警察史第3巻 p455/表より数字のみ抜粋(省略と抜粋)


そのほか昭和41年度以降の教習所数の推移など。

年度 |指定教習所数(新規指定)/非指定教習所数 [教習所総数]
昭和40、41年 |指定0/非指定26 [総数26]
昭和42年 |指定0/非指定24 [総数24]
昭和43年 |指定2(普天間、奥武山)/非指定22 [総数24]
昭和44年 |指定8(壺川、宜野湾、安ヶ名、カデナ、糸満、天久)/非指定16 [総数24]
昭和45年 |指定8/非指定16 [総数24]
昭和46年 |指定9(川畑)/非指定15 [総数24]
昭和47年 |指定11(コザ、浦添)/非指定13 [総数24]
昭和48年 |指定12(美池)/非指定12 [総数24]
昭和49年 |指定12/非指定12 [総数24]
昭和50年 |指定13(津嘉山)/非指定11 [総数24]
昭和51年 |指定13/非指定11 [総数24]
昭和52年 |指定16(那覇、馬天、名護)/非指定8 [総数24]
昭和53年 |指定17(第二天久)/非指定7 [総数24]
昭和54年 |指定17/非指定7 [総数24]
昭和55年 |指定18(八重山)/非指定6 [総数24]
昭和56年 |指定20(三和、宮古)/非指定4 [総数24]
昭和57、58、59年 |指定20/非指定4 [総数24]
昭和60年 |指定19(奥武山廃校)/非指定4 [総数23]
[沖縄県自動車教習所協会]創立20周年記念誌 p21「会員(指定教習所)年度別推移」より省略して抜粋


指定教習所は昭和43(1968)年からなのでそれ以前は練習して一発試験という感じだったんでしょうか。
昭和47年頃までの新規指定は全部自動車練習所だったのですがその後自動車学校への改名があります(そのままのところや新しく指定されても講習所というところもあります)。自動車学校という名称で新規指定されたのは48年の美池自動車学校が最初、改名は47年の壺川自動車学校が最初です。
昭和48年以降指定されたのは9校でそのうち自動車学校が6校、練習所が3校ですがこのうち2校は自動車学校に改名しています。
沖縄では教習所のことを自練と呼ぶことがあるのですが、これはおそらく非指定教習所全盛時代の自動車練習所の通称が根強く記憶にあるのかもしれません(本当にそう呼んでいたかどうかははっきりしません)。

国場真一

1954年の沖縄名鑑から国場真一さんです。

丸國マーケット経営主
壷屋町内会長
国場真一
明治27年10月10日生
氏は那覇市壷屋の出身にして明治40年那覇尋常小学校を卒業す。陶器の名産地壷屋にあって陶器製造業に従事(略)
終戦後は壷屋に現在の丸國マーケットを新築し貸店舗として市民に提供広く顧客を擁して繁栄を極めている。氏は現在壺屋町内会長として活躍し、かつては所得長者番付のナンバーワンとして盛名を謳われ面目を施した。
沖縄名鑑(1954) p77(省略と抜粋)


昭和25(1950)年の那覇市内の多額納税者に7位で名前があります。

(1)高良一/劇場、(2)真栄田義郎/劇場、(3)金城真行/土建、(4)仲井眞元楷/劇場、(5)仲村忠信/商業、(6)山城思太郎/土建、(7)国場真一/商業
那覇市内の多額納税者(S25)


丸国マーケットがいつ出来たのかはちゃんと探せてないのですが1950年にはあったというのは確かそうです。
那覇市内の割当地土地評価でも丸国周辺は市場通りに次いでの高評価ですので儲ってたんでしょうね。

関連:グダグダ(β) 51年の土地評価(割当地 2)

希望ヶ丘服装学院

現桜坂劇場向かいにあった希望ヶ丘服装学院です。

那覇まちのたね通信 | 那覇/希望ヶ丘から桜坂オリオン、開南方面を望む
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=1888



現在の希望ヶ丘公園内から現桜坂劇場を望んでいます。画像は建物に書かれた学園名。

那覇まちのたね通信 | 那覇(真和志市)/希望が丘公園
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=1930



学園全景。四角い建物で、四方に学園名が書かれていた?

那覇まちのたね通信 | 真和志/松尾高台から市の北方を望む/戦後/右手奥に希望ヶ丘とグランドオリオンが見える
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=1830


グランドオリオンは1955年開館。松尾からのアングルでも学園名が見えます。

オキナワグラフ1959年3月号の広告では、洋裁科、和裁科、調理科、生花科、盤景科、茶の湯科とあり院長は大山敦子となっています。
実は少し前に大山さんの訃報があり元希望ヶ丘服装学院長とありました。そこから拾ってみると享年96歳で竹富町竹富出身とのことです。そうすると1915(大正4)年生でしょうか。
学校の建物はもう無くなっていますが、桜坂劇場向かいあたりにここではないかと思われる敷地があります。

60年代中期の地図を参考にするとこのあたり(青)ではないかと。

【追記】54年撮影の写真に希望ヶ丘学園の看板が写っています。
http://naha.machitane.net/old_photo_big.php?id=2055

天妃ヤマトゥグチ

「沖縄戦後生活史」から渡慶次ハルさんの証言を引用します。

1938[昭和13]年7月、上京以来5年ぶりに帰郷した。那覇市立天妃尋常高等小学校付属幼稚園へ就職したためだった。
当時の那覇市長故当間重剛氏にあいさつに行くと、市長は開口一番「郷に入れば郷に従えというが、言葉は別だ。君の切れ味のよい歯切れよさ、洗練された言葉が気に入って採用した。これを失わずにずっと続けてほしい」と念をおされた。
偶然の一致だと思うが、当時、那覇の標準語は「天妃ヤマトゥグチ」という妙な訛りのヤマトゥグチが、当然のように使用されていた。
幸か不幸か、それが原因で私はこれを守り通し、職場ではもちろん、結婚したときも家庭で標準語で話すことを許してもらい、それを生活語としていたので方言は不得手である。
友達や周りの人たちが、時と場、相手によって巧みに両方を使い分けて話している様子を見て、うらやましいやらくやしいやらで、今さらながら自分の不器用さ、要領の悪さに腹が立つ。 (那覇市)
沖縄戦後生活史 p170


昭和10年東京都竹旱町教員養成所卒。13年那覇市立天妃幼稚園勤務。22年文教学校付属幼稚園勤務。26年那覇市立開南幼稚園勤務。29年那覇幼稚園協会初代会長。38年沖縄幼稚園協会副会長。47年沖縄女子短期大学非常勤講師。
http://library.main.jp/index/jst19786.htm


昭和13年の那覇中心部では天妃ヤマトゥグチというのが使われていたのは面白いです。「天妃」とわざわざつけられているのは寄留商人の中心地であったせいもあるんでしょう。

大同火災本社の土地


現在那覇市久茂地で工事中の大同火災新本社ビルは平成4年(1992)10月に着工、平成6年6月に完成する。
新本社ビルの敷地には昭和32(1957)年頃3階建ての沖縄火災ビルが建った。沖縄火災、南西火災が合併、のちに球陽自動車保険を加えて共和火災となり、同社の本社となった。その頃の同ビルはアメックス(アメリカ系銀行)や沖縄テレビ開設準備室など数社が入っている雑居ビルだったが、共和火災が全部使用する事になり、全入居者引き移ってもらった。そうするとビル敷地の地主代表のM氏は「お前が来たら、全部追い出してしまうのか?」と冗談を言っていた。三階屋上にプレハブを増設したが手狭になっていた。現在のようなコンクリートパイルなどなく地下に松杭を打込んであったため、これ以上、上に伸ばすのことはできない。辛抱のしどころとなった。
この土地を購入するために私はM氏と交渉に入った。提示された額があまりにも高額で、わが社の資産総額の不動産枠をはみ出してしまうので見送った。
ところが大同火災になってあと、今度は地主側から買ってくれといってきた。隣地も合わせ200坪に少し足りなかったが、交渉の末全額現金で支払い、社有地とした。この土地は久米門中の共有地で、別に代替地を購入、剰余金で門中打ち揃って旅行に行ったと言って門中代表から大へん喜ばれもした。
大同火災と私の人生 p175〜178(抜粋と編集)


現在の大同火災本社は「那覇市久茂地1丁目12-1」(http://g.co/maps/fzhh5)、この場所は移転前の沖縄タイムス本社ビル向かいになります。
大同火災は復帰に備え1971年に琉球火災海上保険と共和火災海上保険が合併したもので、下の写真では共和火災海上保険となっています。
那覇まちのたね通信 | 沖縄タイムス社前
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=604



松杭は旧沖縄タイムス本社ビルでも使われていたようで、取り壊し時にニュースになりました。当時は一般的だったようです。
参考:グダグダ(β) リュウキュウマツの杭

引用文ではこの土地が久米門中のものだったことがわかります。

左図は現在の地図に「那覇市旧跡・歴史的地名地図」に示されている戦前の道をかいたもの、右図は昭和初期の地図と推定した大同火災の位置(ポインタ)です。
戦前の町名はこんな感じ。
旧那覇市街西側
旧い時代には久米人は久米と久茂地あたりにいたそうですから門中の土地があったとしても不思議ではありません。
参考:グダグダ(β) 久米村人(クニンダ)の宗家

1959年の赤丸宗と黒丸宗

1959年の「琉球人名商社団体要覧」の味噌・醤油の項に赤丸宗と黒丸宗があります。
もともと戦前に垣花にあった具志堅味噌醤油を1950年寄宮で復活させた会社なのですが、1951年に首里の赤丸宗と寄宮の黒丸宗になります。

具志堅味噌醤油合名会社(アカマルソウ)
本社 那覇市首里寒川町1丁目18番地
醤油醸造販売並に内外貿易業
---
具志堅食品醸造合資会社(クロマルソウ)
本社 那覇市字寄宮
味噌・醤油・食酢・ソース醸造販売
米・大豆・バラカス・其他原料貿易販売
琉球人名商社団体要覧(1959)p203 (抜粋と引用)


赤丸宗と黒丸宗という名前ではなく、「具志堅味噌醤油合名会社」と「具志堅食品醸造合資会社」になっています。
赤丸宗は具志堅宗精が社長ですが、それぞれの会社の具志堅姓の人間を抜出してみます。

赤丸宗
具志堅宗精(社長)、具志堅宗発(副社長)、具志堅宗平(支配人)、具志堅宗悦(醸造部長)、具志堅宗一(醸造副部長)
黒丸宗
具志堅宗演(社長)、具志堅宗佑(専務)、具志堅宗伝(工場長)


1958年発行の「沖縄主要都市地図」では現寄宮市街地分譲住宅の位置に黒丸宗はあり、別ページには「本家クロマルソウ 寄宮区 HONKE KUROMARUSHO」とあります。

関連:グダグダ(β) 赤丸宗/黒丸宗

沖縄製帽のようす

上江洲由正さんの「大同火災と私の人生」から帽子に関する箇所を抜出します。

私[上江洲由正]は大正6(1917)年、父上江洲由清、母マカトの二男として那覇市松下町2丁目13番地で生まれた。
私の家は、現在の場所でいうと、国道58号から旧琉球石油本社に抜ける通りの真ん中辺りにあった。父・由清がパナマ帽子の製造販売をしていた関係で、宅地はかなり広く,庭先にパナマ帽の原料を漂白するための池があり、干場もあった。
学齢期になった大正13(1924)年、私は北谷村・屋良小学校に入学した。那覇の自宅は、沖縄製帽の本社兼自宅のようなもので、嘉手納に出荷場を持っていた。遠く山原や中頭方面で編まれた帽子を集めるのに嘉手納は地の利を得ており、私は幼年時代をそこで過ごしたのである。私の家は嘉手納駅のすぐ側にあり、集めてきた帽子は嘉手納駅から軽便鉄道で那覇に送っていた。 
p2〜p6
那覇市が刊行した「那覇市の産業」によると、沖縄における帽子製造は明治時代に始まったといわれる。明治33年児玉利吉という人がアダン葉を用いてタバコ入れや草履を作って販売したが、明治36年岡山県人中山徳次郎がアダン葉の漂白法を考案しアダン葉帽子製造の端緒になったとされる。パナマ帽は元はパナマやエクアドルなど中米産のヤシの葉を原料にクリーム色に漂白して編んでいた。初期の頃は遠く外国から輸入する原料に頼っていたが、沖縄で自生するアダン葉が原料として登場し、沖縄全県下にいわゆるボウシクマー(帽子編み)が普及するようになった。
私が那覇商業を卒業して家業を手伝うようになったころ、沖縄には7つの製帽会社があった。服部とか帝とか、私たちの沖縄製帽が地元唯一の会社でその他6社はすべて他府県人の経営、つまり寄留商人と呼ばれる人たちだった。何故沖縄の人達の会社が私たち以外に設立されなかったのか?技術や経営能力はあっても資金がなかったのである。第百四十七銀行が那覇に支店を開設して安定した営業をしていたが鹿児島に本店があり沖縄の人が融資を受けるのに条件が厳しくいろいろな隘路があった。私のところは幸い資金の手当を受けたが、沖縄の商人で同銀行から融資を受けるのはわずかな数だと聞いた。
p16〜p18
大同火災と私の人生 (抜粋と編集)


松山の沖縄製帽は上江洲宅のようなものであり、帽子編みは地方にいてその原料配布や製品回収をしていたようです。
自分も勘違いしていたのですが、アダン葉があったから産業として興ったわけではなく、それ以前に外国から原料を輸入して製造されていたようです。そしてアダン葉の漂白方法が考案された事から材料がアダン葉に移行、原料枯渇後は輸入材や紙製代替品に原料を替えて製造され続けたようです。

前記の「那覇市の産業」には昭和4年ごろの帽子製造状数1165戸、職工1340人(男211人、女1123人)と記述されており断然女子が多かった。戸数、稼働人員が那覇市内に限ったものか、那覇市外つまり全県的な数字であるか不明だが、全県的であればもっと膨らんでいたはずである。
私たち沖縄製帽の場合だって遠く本部、今帰仁をはじめ泡瀬、知念辺りまで帽子編みの職人を抱えており、戸数が職人が多数だったことは容易に想像できる。沖縄製帽の自社従業員は30人ほどだった。帽子編みが農村部の子女に人気があったのはそれなりの理由があった。女子の職場のない当時、女たちも田畑仕事に従事するのがあたりまえのこと。そんな時、手足も汚さず、太陽の直射を浴びて色も黒くならずにすむ家の中での帽子編みが出現したので、われもわれもととびついたのである。手間賃も働きによって結構取れることも魅力だったのだろう。
帽子を編む作業場は各自の家の場合もあったが、数人がムラの集会所など一ヶ所に集まって、おしゃべりをしながら作業をする。ラジオとてない農村で若い娘たちが集まって自由に噂ばなしをするだけでも最高の娯楽であり、ましてや異性に関するひそやかな情報も得ることもできた。
原料にしても編み上げた製品も、重量のあるものではない。自転車の荷台に積んで運んでいた。読谷や本部のような遠隔の地になると嘉手納まで軽便鉄道で自転車ごと運ぶ。今考えると悠長なものだが、最も適した輸送手段だった。
家業を手伝う私も原料の配布や製品の集荷などをしていた。嘉手納、与那原、糸満までは軽便鉄道が運行しているのでそれを利用したが、本部方面になると渡久地-那覇港間は船に乗った方がはるかに便利だった。
大同火災と私の人生 p19〜p22(抜粋と編集)


女性史などの証言集ではムラで集まって帽子編みをしたという証言はよく出てきます。
日焼けに関してですが、昔は高級士族の女性は傘をさして歩いていたので、日焼けをしていないというのはステータス感があったのかもしれません。上江洲由正さんの話は昭和に入ってからだと思いますので、すでに傘をさすような人はいなくなっていたとは思いますが...
引用しませんでしたが由正さんが原料仕入れのトラブル解決のため南洋にいったエピソードも書いてあります。

× CLOSE

ブログ内検索

アクセス解析

カレンダー

05 2025/06 07
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30

最新コメント

[08/08 なちょうらーざ]
[07/19 shimoji]
[07/19 shimoji]
[03/21 2階の店舗の娘]
[03/05 福島敏彦]

× CLOSE

Copyright © グダグダ(β) : All rights reserved

TemplateDesign by KARMA7

忍者ブログ [PR]