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ガーブーへの流れ


与儀公園から開南に至る道の側を並走するガーブーとガーブーに流れ込む水路です。参照元は真和志民俗地図です。
Aは王樋川からガーブーへの流れ。一時はせせらぎ通りとして道路脇に常時水が流れていたくらいですからせせらぎ通り以前にも当然水の流れはあったはずです。表通りの裏側にそれっぽい感じの通りがありますが確認はしていません。
また書き込んだ流れの精度も大体こう示されているといった程度です。

Bは船増原から神原中学校を横切って流れ込む流れ。
この図の範囲は刑務所跡(現裁判所)が周囲で一番高い土地でガーブーが一番低い土地になっています。

この二つの流れは現在目にすることが出来ません(与儀はありました2010.03.03)。せせらぎ通りでは表に出ていましたが元々流れていた流れは溝か暗渠になっています。
しかし水の流れが土地の形に影響を与えるならこういったことがらも頭に留めておくとわかることがあると思うのです...
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与儀(ユージ) 2

与儀の集落図です。
与儀集落
•与儀原
•船増原(フナマシバル)
•宇蘭原(ウランバル)
•与武門原(ユンジョウバル)
•後原(クシバル)
•西原(イリバル/船増原の上方、神原中・小の場所)


与儀タンクがあった場所以外は古い道や旧跡がほぼ残っていて、楚辺から下りてきた道の側には与儀馬場、集落の中心部のウタキ周辺には紫色で示した本家筋があります。引用します。
与儀の本家筋はナナムートゥとて七軒あって現在も同様に繁栄している。
 イー(ラキブチとも与儀巫殿内ともいって高安姓を名乗る)
 ウフ アガリ<宮城>
 ウフ イリ<城間>
 ウドゥンヤー<城間 大東[ウフアガリ]の分家>
 ウフンミ<大嶺>
 シリー<城間>
 シチャナーカ<島袋>
那覇市史資料編第二巻中の7、p499


その他周辺には道を渡った宮城原に宮城ウガン、道の側にトングヮー(糸満人拝所)があります。図の右側、国場勝良又原には日本軍与儀射撃場が寄宮国映通りと重なるように存在します。
射撃場側の「イバヤ」ですがなんであるのかわかりません。しかしその北に存在する橋は真和志民俗地図ではイバヤ橋と称されていて関連があると思われます。またこの橋はヒータイ橋(兵隊橋)とも呼ばれていたようです。

イバヤについて追記しました。→イバヤ橋
イバヤ=射場ヤのようです。

ケブン川原(識名)

キブンジャー川はケブン川原(ケブンジャーバル)に発する流れです。
キブンジャー
この安里川に合流する流れは真和志民俗地図ではクチャガーラグヮー、別の資料ではキブンジャー川(ケブンジャー)。そして源流付近一帯は真和志市誌の真和志市區劃図にある地名の原名(ハルナー)にはケブン川原とあります。

クチャガーラグヮーはクチャ川(ガーラ)小(グヮー)でしょう。そしてケブンジャーとキブンジャーの違いはおそらく表記や読みの揺れで、ジャーはガーラと同じように川の意ですからケブンジャー/キブンジャーのみでケブン川/キブン川のことになります。
ケブン川原はケブン川の源流であるケブンジャー樋のあるハルという意味でしょうか。
参考に原(ハル) 毛(モウ) トーから引用します。
カーとは井泉の義であるが、その音声から川の字が当てられ、河川にはカーラまた濁音になって○○ガーラ。カーラの変化した○○チャーラ、また濁って○○ ヂャーラと呼ばれるが、これは河川を原義とするものであろうが、これも川の字があてられていて字面だけでは井泉か河川かの判断はつかない。

流れは石田中学校後方のケブンジャー樋に端を発します(真和志民俗地図には記載されていますが正確な位置は確認していません)。
そして識名小学校南部を通過し大石公園後方で曲がり三原へ流れてゆきます。そのあとは露出していますしどこも道路から確認できるので明確です。

70年代の仲井真

70年代の仲井真です。
畑を緑、住宅をピンクで表記しました。表示範囲は国道を境にしてあります。
仲井真
これを見る限り仲井真も純農村ですね。
国場交差点付近の川が蛇行しているあたりには自動車修理工場や材木屋などの工場が集中しています。329号線沿いは大通り沿いらしく店舗が多いです。
壷屋の川の側あたりもそうですが川の側は鉄工所や製材所などが集中する傾向がありますね。

川が不自然に直線化している所は現在の改修された川筋と同じです。
また左下側の南風原との境付近の集落は仲井真ハイツと表記がありますので新興住宅街なのでしょう。

多和田原(銘苅)

真和志民俗地図から銘苅多和田原(タワタバル)です。
多和田原
民俗地図では多和田ノンドンチ(ヌンドゥンチ)となっている場所が多和田の嶽だと思われます。そのそばには多和田馬場もあったようです。

そして図中央を流れる銘苅川と呼ばれる流れですが、民俗地図では下流をタワタガーラ、現在の消防署付近で曲がるあたりを大湾ガーラと説明しています。現新都心銘苅庁舎付近は川の流れに沿って遺跡が多数あります。
図の下方側、流れの上流の薄いピンクで塗っている辺りを中心に集落があり、周辺の集落へ道が通じています。新都心の範囲では左上にピンクで示した安謝、図には書きませんでしたが旧泊浄水場上方の天久などが大きな集落です。新都心周辺には真嘉比、安里にも集落があり各集落の間を道がつないでいます。

那覇と浦添の境界になっている安謝川ですが民俗地図とは流れが異なる箇所がいくつかあります。図では道路などから元の流れを推定して緑で書き込みましたがそれでも民俗地図とは大分違っています。
民俗地図で特徴的な川のポイントが特定できれば各原の境界なども特定できるのですがなかなか厳しいです。

真地の水路

70年代真地の周辺図です。ゼンリン地図から抜き出しました。
真地
緑になっている所が畑の表示がある所でこの範囲内に住居はほとんどありません。市街地化される以前は純然たる農耕地帯ですね。
紫は暗渠、水色は露出している水路です。水があって良い農地だったのでしょう。

現在の環状2号(沖縄県道82号那覇糸満線)はまだ開通していませんが工事ははじまっています。
•本土復帰後、那覇市安謝 - 首里儀保町の環状2号線が全線完成。その後南風原町新川 - 那覇市上間一日橋間も完成。
•1980年前後 那覇市安謝 - 首里儀保町と南風原町新川 - 那覇市上間の環状2号線、東風平町外間 - 糸満市賀数、同市座波 - 潮平の市町道(一部農道も含まれる)が県道那覇外環状線(県道220号)として県道に昇格。
•1990年代 南風原町津嘉山 - 終点(糸満市潮平)のバイパスが全線開通。

http://ja.wikipedia.org/wiki/沖縄県道82号那覇糸満線


練兵橋

今もある練兵橋です。

練兵橋は図の中央にある赤真加利原(アカマカリバル)にある大道小と真和志中から現松川小であるサクマ森(サクマムイ)に向けて安里川を渡る橋です。赤で示していますがその側の赤い四角は射撃場です。
松川小前を通り練兵橋で安里川に流れ込む流れは石田原(イシダバル)のハンタガー付近に端を発しています。
図の範囲がわかりにくいのでgoogleマップのリンク

前原・溝原・後原・長田原(国場)での引用をそのままここでも引用します。

もともと現松川小学校ちかくにあった日本軍の射撃場がいつの頃か勝良又原に移動してきた。
通称壺川、松尾集落の一帯に土を盛り上げクンチャミ毛の斜面に撃ち込むようになっていた。射的場はヒータイ橋から一直線にほぼ南北であった。
国場誌 p335


松川にあった射撃場の移転先は勝良又原(国場)です。

以下余談扱いですが、図の下にあるケブンジャー川はクチャガーラグヮーと説明されています。
ケブン川原(ケブンジャーバル)を源流とする流れですからケブンジャー川という呼び方はケブン川-川となって無駄な呼称になってしまいます。しかしこのブログではジャーが川というふうにピンと来る人ばかりではないことを考慮してケブンジャー川と呼びたいと思います。
参考:マカンジャーラ
この考え方で行くとクチャガーラグヮーも「クチャ-川-小」と考えるのが正しいのですがここまでくるとどう説明していいのかわかりません...

安里の暗渠

安里三叉路裏の暗渠です。


一部は道なりに、残りも原型がわかるような形であります。
上方の安里原と羽佐間原は丘で、暗渠のある平良原は低地かつ半分湿地でした。このあたりは上方の水が流れ込む経路だったのでしょう。

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