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寿屋ブタノール工場

安謝部落北側一帯の土地には戦前ブタノール生産のための軍需工場があり、それは現在のサントリー、当時の寿屋によるものでした。
安謝誌によると建設のための条件として安謝の若者を雇用することなどが出され、22名が大阪工場へ技術習得のため昭和16年に派遣されています。敷地は現在のコジマ電器(58号線沿い十字路角)からジミー安謝店の手前(川まで)の広大な一帯でした。
コジマ電器からマックスバリューまでの一帯が倉庫地帯で、そこには宮古八重山をはじめ各地から砂糖が運び込まれて来たそうです。沖縄県内各地の製糖工場から砂糖が倉庫に集められ工場でブタノールにしていたということですかね。
しかし「昭和20年3月、寿屋工場は戦災により解散した(安謝誌、p126)」そうです。

下記アドレスのページで破壊されたブタノール工場の姿を見ることができます。
安謝地区ブタノール工場 (那覇市安謝)
http://www.okinawa-senjoh.com/ajyabuta.htm

変わらない場所で営業を続ける沖縄サントリーの場所はここ(下)。
Google 検索 :沖縄サントリー(株)

また軽便鉄道から工場までの引込線(未完成)もありました。
戦時中安謝にあった寿屋のアルコール工場を海軍が接収し航空燃料用のブタノール工場へ転換させていた。嘉手納線よりこの工場への引込線を付設する軍令に基づいて、内間より分岐し安謝川を渡って工場へ至る区間の道床が完成し、一部のレールが敷かれようとしていたが資材難で完成できず、工場はアメリカ軍の砲弾で破壊され再開されなかった。
図説・沖縄の鉄道/加田 芳秀 p34、35

内間の引込線
左は米軍の作戦図、右は現在も残る引き込み線跡の道路。
参考:岡野区/住吉区(安謝)
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安謝の土帝君

安謝部落北側にはいまもサントリー(寿屋)があり、その敷地内に拝所である「土帝君」がありました。
図はあまり正確ではないかもしれません。
土帝君(トーテイクー)
ここでは地形の変化を主に取り上げます。
写真の地は環状2号線沿いの「サントリー株式会社」敷地内に在る。戦後の土地造成によって岩石の上部まで埋め立てられた。現在は芝や樹木がその上部周辺に植えられ会社の庭園となっている。社員の話によれば「現在でも祈願者は時折訪れる」という。
安謝誌 p125

この説明はほぼ埋まっている岩石の写真につけられています。
またサントリー敷地一帯でも造成が行われたことを憶えておきたいと思います。
Google 検索 :沖縄サントリー(株)

戦後現サントリー敷地から義理地原の海岸沿い一帯は岡野区になりました。岡野区/住吉区(安謝)で真和志市誌を引用しましたが再度引用します。

岡野区は、 1946年10月、松岡(政保)氏が工務局長時代復興計画をなし、工務関係の資材置き場として旧ブタノール敷地(※現サントリー)4万5000坪を解放してもらい安謝資材集積所を作り、日本より輸入して来る民用の資材集積を為し、さらに製材工場を造り、規格住宅を各地区に配給するため工作隊二百名以上の作業員が5、60の住宅を持ち、外に合宿所を作って、移住して以来、この工作隊の関係者が次々と移住して今日の部落を形成するようになった。岡野という名称も、岡の上の野原に自然部落が出来たので岡野と称えるようになった。
真和志市誌 p275


ブタノールは砂糖からアルコ−ルを作ってさらにそこから作るのだそうですが、工場が完成してももろみ製造になかなか成功せず本土から坊さんを呼び土帝君をお祓いしてようやく成功したそうです。
そういう場所を埋めていいんですかねぇ...

【追記】那覇市史からおそらく同じものについて書かれた部分を引用します。
村の北外れの小さな洞窟入口に、鍾乳石が数個置かれていて、これをビジュルと呼んだ。勧請譚も失われている。毎月朔望[註 1、15日]に村の神人・区長らが、ムラヌクサイ(村の鎮守の神)の1つとして拝んだ。海神信仰と関係があるらしい。
那覇市史資料編第2巻 中の7 P439(抜粋と編集)


別箇所では土帝君の伝承は不明とされています。
かつてムラで土帝君を祀っていたのではないかと推定される場所は安謝である。安謝にはトゥーテイクーと呼ばれる丘がある。隣接の真嘉比の村人が4月のアブシバレーの時にそこでアシビをしたという。しかし、安謝でも真嘉比でも、その丘で土帝君を祀ったという伝承を確かめえなかった。
那覇市史資料編第2巻 中の7 P442(抜粋と編集)


おそらく何かの混乱があったのだと思われます。

タードーシ(安謝)

安謝部落の北側東よりに「タードーシ」と呼ばれる一帯があります。
タードーシ
図では安謝部落とその後背部が高台でタワタガーラ河口(チチフガシ)に向かって下ってゆく地形です。安謝誌ではこのタードーシは田んぼではなかったかと述べられています。
県道沿いの川際にタードーシと同じ緑色で塗った箇所がありますが、安謝誌の「民俗地図安謝(大〜昭和15)」では田んぼ、田芋、ビーグと記載されていて湿地であった事がわかります。
安謝部落北側には砂まじりの土壌を好むスイカが栽培されていましたからこのあたりは海沿い特有の土地柄だったといってよいかと思います。

安謝一帯の古い海岸線は現在の高台に入り江がたくさんあるような形状で、後年川が運んできた土砂が堆積して陸地化しています。
那覇の古海岸線

ナナユヒー(安謝)

安謝の本部落の西側にあったナナユヒー()です。安謝誌の記述を読むとどうやら屋取部落であったようです。
ナナユヒー

現在の北側トンネル辺りの県道は現在よりずっと低く(略)道幅が狭く、安謝、天久間が急勾配であった。この県道の西側にナナユヒー部落と呼ばれる小さな集落があり、安謝、天久間の急坂をナナユヒービラと呼んでいた。
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ナナユヒービラの西側は地籍上は義理地原だが、「イリバルとかイリンダカリ」と呼ばれていた。約30戸ほどあり、周囲には落花生畑が多くあった。首里や那覇からの移住者が多かったせいか勤め人も多かったようである。
安謝誌 p30


ナナユヒーの北側には糸満屋(糸満人部落)もあります。
安謝部落北側は川沿いの低地のせいか田圃、ビーグ、田芋の栽培もあり、図で示した二ヶ所はスイカ畑になっていたようです。スイカは砂まじりの土がいいそうですがこのあたりの土はそうだったんでしょうか。
また安謝誌には「明治期にはスイカ・ナスなどの名産地として知られたほか、西海岸一帯は豆腐製造用の塩水、サトウキビ畑の肥料とする砂や海草類の採集地であった」(p30)と地名大辞典を引用して語られています。
那覇民俗地図ではナナユヒーの南側、天久潮満原(ウスミチバル)には旭農園という名前があります。

唐栄久米村と天妃宮

唐栄久米村と天妃宮
日本における天妃信仰の展開とその歴史地理学的側面(高橋誠一)
http://www.icis.kansai-u.ac.jp/paper02.html#10
http://www.icis.kansai-u.ac.jp/data/journal02-v1/10_takahashi.pdf


高橋誠一さん制作の「唐栄久米村と天妃宮」図です。上記アドレスのpdfから切り出しました。
この図はここでも触れた「琉球の都市と村落 (関西大学東西学術研究所研究叢刊) 」に掲載の図に着色したもののようです。あの図はいろいろと参考にしていています。
改めて感謝申し上げます。m(_ _)m
ブログ内検索結果:琉球の都市と村落

スグルクガー・ミートゥンダガー

安謝誌からスグルクガーとミートゥンダガーです。

直禄ガーは大湾ガーラのカーブする箇所のそば(現佐川急便付近)にあります。ここは安謝ではなく銘苅の直禄原(スグルクバル)です。
ここは旧暦五月のグングヮチウマチーの時に多和田巫殿内などとともに拝んだようです。
ミートゥンダガーも銘苅の港川原、安岡中学校そばの安岡市街地住宅近くにあります。銘苅と安謝の境界線はだいたい多和田ガーラになります(直禄原は違いますが)。
※図のスグルクガーの位置はあまり正確ではありません
多和田原安謝北の原名
ミートゥンダガー
昔の安謝村落の人達が使っていた井戸(現在も拝んでいる)。県営住宅建設のために周辺が埋め立てられ現在は地下5、3メートル(ママ)の位置にある。県営安岡市街地住宅近に接近し、沖縄電力、発電設備所の出入り口近くに、金網で囲まれた長方形の穴がある。網戸を開け鉄製の階段を下りるとコンクリート敷で1、3メートル幅(ママ)ほどの細長く平らな場所がある。
安謝誌 p70


ミートゥンダガー周辺の安岡市街地住宅一帯が5メートル程もかさ上げされされているのがわかります(もしかしたら井戸は少し掘り込んだ位置にあったのかもしれません)。
ともあれ現在の道路からはだいぶ低い土地であったことは確かそうです。

戦後の多和田巫殿内

多和田原(銘苅)で多和田巫殿内(ヌンドゥンチ)について少し触れました。下の図では空白になっている箇所が米軍住宅地でしたのでそのなかにあったことになります。
多和田原
多和田巫殿内は戦後(昭和27、8年頃)に寄宮に移動されて現在は知事公舎の北あたりにあり、現在は二坪程のコンクリート造りの神屋が二棟建っているそうです(安謝誌 p67)。
天久の地縁 2で銘苅のこともさっと触れたのですが、土地接収によって銘苅の人達は寄宮一丁目あたりに移動しているので拝所も移住先に移動したのでしょう。

多和田巫殿内があった場所は字銘苅で安謝と銘苅の境目は多和田ガーラなのですが、旧暦五月のグングヮチウマチーでは近くの井戸御嶽や多和田巫殿内、スグルクガーなども拝んでいたようです。

安謝部落の排水溝

安謝部落は北にある川と西側にある海に向かって緩やかに傾斜しています。
集落周辺から海と川に向かって排水溝がありンジュ(溝)とウフンジュ(大溝)と呼ばれていました。
安謝ウフンジュ
図は安謝誌の末尾にあった「民俗地図安謝」を参考にしました。大正期から昭和15年頃を想定して作られているようです。

集落の前から北に走る溝が川に流れ込む手前付近に色を付けてありますがそこらへんは田圃、田芋、ビーグを育てていたようです。
ビーグがい草と同じものかどうかわかりませんが見た目や用途は同じです。また湿地や浅い水中に生える植物のようなのでこのあたりは湿地だったのでしょう。
安謝誌にはこのあたりにカエルを捕りに来る堂小のタンメーの様子が書かれています。

大正5、6年頃の話だが「堂小屋敷のタンメーも時折来ていたようである。タンメーはブチグヮー(細長い竹の棒)で草むらをたたきながら大溝に沿って歩いてゆく。蛙がびっくりしてとびはねると、それをぱっと捕え腰に下げたティールにいれていた。タンメーの仕草が面白く、子供たちはタンメーの後を追っかけてあそんでいた。タンメーは安謝川まで行くと溝の反対側に回りナグモー向け(注:那覇向け)に進み蛙を捕りながら帰っていった」という。
安謝誌 p29、30

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