安謝部落北側にはいまもサントリー(寿屋)があり、その敷地内に拝所である「土帝君」がありました。
図はあまり正確ではないかもしれません。

ここでは地形の変化を主に取り上げます。
写真の地は環状2号線沿いの「サントリー株式会社」敷地内に在る。戦後の土地造成によって岩石の上部まで埋め立てられた。現在は芝や樹木がその上部周辺に植えられ会社の庭園となっている。社員の話によれば「現在でも祈願者は時折訪れる」という。
安謝誌 p125この説明はほぼ埋まっている岩石の写真につけられています。
またサントリー敷地一帯でも造成が行われたことを憶えておきたいと思います。
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沖縄サントリー(株) 戦後現サントリー敷地から義理地原の海岸沿い一帯は岡野区になりました。
岡野区/住吉区(安謝)で真和志市誌を引用しましたが再度引用します。
岡野区は、 1946年10月、松岡(政保)氏が工務局長時代復興計画をなし、工務関係の資材置き場として旧ブタノール敷地(※現サントリー)4万5000坪を解放してもらい安謝資材集積所を作り、日本より輸入して来る民用の資材集積を為し、さらに製材工場を造り、規格住宅を各地区に配給するため工作隊二百名以上の作業員が5、60の住宅を持ち、外に合宿所を作って、移住して以来、この工作隊の関係者が次々と移住して今日の部落を形成するようになった。岡野という名称も、岡の上の野原に自然部落が出来たので岡野と称えるようになった。
真和志市誌 p275ブタノールは砂糖からアルコ−ルを作ってさらにそこから作るのだそうですが、工場が完成してももろみ製造になかなか成功せず本土から坊さんを呼び土帝君をお祓いしてようやく成功したそうです。
そういう場所を埋めていいんですかねぇ...
【追記】那覇市史からおそらく同じものについて書かれた部分を引用します。
村の北外れの小さな洞窟入口に、鍾乳石が数個置かれていて、これをビジュルと呼んだ。勧請譚も失われている。毎月朔望[註 1、15日]に村の神人・区長らが、ムラヌクサイ(村の鎮守の神)の1つとして拝んだ。海神信仰と関係があるらしい。
那覇市史資料編第2巻 中の7 P439(抜粋と編集)別箇所では土帝君の伝承は不明とされています。
かつてムラで土帝君を祀っていたのではないかと推定される場所は安謝である。安謝にはトゥーテイクーと呼ばれる丘がある。隣接の真嘉比の村人が4月のアブシバレーの時にそこでアシビをしたという。しかし、安謝でも真嘉比でも、その丘で土帝君を祀ったという伝承を確かめえなかった。
那覇市史資料編第2巻 中の7 P442(抜粋と編集)おそらく何かの混乱があったのだと思われます。
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