安謝の本部落の西側にあったナナユヒー(
赤)です。安謝誌の記述を読むとどうやら屋取部落であったようです。
現在の北側トンネル辺りの県道は現在よりずっと低く(略)道幅が狭く、安謝、天久間が急勾配であった。この県道の西側にナナユヒー部落と呼ばれる小さな集落があり、安謝、天久間の急坂をナナユヒービラと呼んでいた。
---
ナナユヒービラの西側は地籍上は義理地原だが、「イリバルとかイリンダカリ」と呼ばれていた。約30戸ほどあり、周囲には落花生畑が多くあった。首里や那覇からの移住者が多かったせいか勤め人も多かったようである。
安謝誌 p30ナナユヒーの北側には糸満屋(糸満人部落)もあります。
安謝部落北側は川沿いの低地のせいか田圃、ビーグ、田芋の栽培もあり、図で示した二ヶ所はスイカ畑になっていたようです。スイカは砂まじりの土がいいそうですがこのあたりの土はそうだったんでしょうか。
また安謝誌には
「明治期にはスイカ・ナスなどの名産地として知られたほか、西海岸一帯は豆腐製造用の塩水、サトウキビ畑の肥料とする砂や海草類の採集地であった」(p30)と地名大辞典を引用して語られています。
那覇民俗地図ではナナユヒーの南側、天久潮満原(ウスミチバル)には旭農園という名前があります。
PR