安謝部落は北にある川と西側にある海に向かって緩やかに傾斜しています。
集落周辺から海と川に向かって排水溝がありンジュ(溝)とウフンジュ(大溝)と呼ばれていました。

図は安謝誌の末尾にあった「民俗地図安謝」を参考にしました。大正期から昭和15年頃を想定して作られているようです。
集落の前から北に走る溝が川に流れ込む手前付近に色を付けてありますがそこらへんは田圃、田芋、ビーグを育てていたようです。
ビーグがい草と同じものかどうかわかりませんが見た目や用途は同じです。また湿地や浅い水中に生える植物のようなのでこのあたりは湿地だったのでしょう。
安謝誌にはこのあたりにカエルを捕りに来る堂小のタンメーの様子が書かれています。
大正5、6年頃の話だが「堂小屋敷のタンメーも時折来ていたようである。タンメーはブチグヮー(細長い竹の棒)で草むらをたたきながら大溝に沿って歩いてゆく。蛙がびっくりしてとびはねると、それをぱっと捕え腰に下げたティールにいれていた。タンメーの仕草が面白く、子供たちはタンメーの後を追っかけてあそんでいた。タンメーは安謝川まで行くと溝の反対側に回りナグモー向け(注:那覇向け)に進み蛙を捕りながら帰っていった」という。
安謝誌 p29、30PR